序章

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 紺より暗く、黒より濃く、どこまでも深い闇の先。  ガス灯の灯りが通りを照らすようになって久しいこの時代でも、少し道を外れれば、薄墨で()いたように見通しのきかない路地に迷い込んでしまう。  そして、その迷い込んだ人々を狙って”奴ら“は物陰からじっとこちらを窺っている。  ――今宵も、また。 「ひっ……! た、助けてくれ……っ」 『お、おま、お前。美味、そうだな……』  べちゃ。の口元から滴り落ちる涎が、地面に染みを作っていく。その染みは、ゆっくり、でも少しずつ、確実にこちらに近づいて来ていた。  完全に腰が抜けてしまった男は、恐怖でかちかちと歯を鳴らしながら、ずりずりと距離を取ろうとする。草履は片方脱げているし、着物も主に臀部の辺りが土で汚れてしまっているだろうが、今はそんなことどうでも良かった。  目の前にいるは、何なのだろう。野良犬ではもちろんない。獣、なのだろうが、今まで見たこともない姿をしている。  熊かと思うほどに大きな身体は全身真っ黒で、靄のように時折揺らいで見える。なのに、口から漂う腐ったような異臭も、爛々と赤く光る二つの眼光も、紛れもなく本物だと思わせる。  は、なんだ?  一歩、また獣が近づく。男もまた後退(あとずさ)るが、とん、と背に何かが当たって振り返る。  背後にあったのは、冷たい壁だった。  ここは行き止まりなのだということを、男は絶望的になりながら理解した。  鼻につく異臭が何とも言えない気持ち悪さを運んで、男は「うっ」と呻く。  何故だ。いつものように居酒屋で一杯ひっかけて、ちょっと用足しに路地に入っただけなのに。こんな、化け物に出会うなんて。  家に帰って、愛しい妻と可愛い子どもの笑顔を見る。それさえも、もう叶わないというのか。  ああ、俺はここで死ぬのか。  自分よりも遥かに大きい獣に見下ろされ、死を覚悟した男はぐっと目を瞑った。せめて、大好きな家族を思い浮かべながら死にたかった。  ……だが。 「――見つけた」  ヒュン、と空を斬る音がして、男はそっと目を開けた。暗い空の下、何かの――人のような影が降って来て、獣の首に何かを振り下ろしたのが見えた。 「……なっ」  振り下ろされたそれは美しく弧を描き、獣の首は身体とあっけなく引き離されて男の前に転がった。  一方、空から降って来た人影は、空中で体を捻って一回転し、ざっと難なく着地した。ヒュッと手に持った刀を一振りすると腰にひっかけた鞘を持ち上げ、するすると収める。 「あ、あァ……あ……」  ひび割れた声で呻く獣だったはボロボロと形を崩し、頭も胴体も空に消えつつあった。  今しがた自らの手で首を落としたはずのに、刀から手を離した人影はどこか億劫そうに顔を向け、ぼそりと呟く。 「うるさいですね。最期に(わめ)くらいなら、そんな姿になる前に山里へ戻っていれば良かったんですよ」  まあ、それが出来ないから苦しんだわけですが、と付け足した人影は、獣が消えゆく様をじっと見つめていた。  その最後のひとかけらが塵芥となって消えたのを見届け、ふとその奥に目をやると、獣に迫られていた男が泡を吐いて気絶していた。確か刀を振り下ろした時は起きていたはずだが、獣の首が転がって行った際に限界が来たのだろうか。  はあ、とため息を吐いた人影は「凛子」と言葉を転がした。すると、 「はいな」  人影の後ろの闇間(やみま)から、まるですっとそこにいたかのような口振りで、可愛らしい少女の声がした。 「この男性を、人の目に留まるところに移動させて下さい。そうですね、なるべく大通りの近いところが理想です。そうすれば誰かが気付くでしょう」 「承知致しました」  少女の返答の後、辺りが俄に明るくなった。空を覆っていた雲が晴れ、月と星が輝く夜空が顔を出したのだ。  澄んだ蒼い空と、散りばめられた数多の星々、そして少しだけ欠けた歪な月が、淀んだ裏路地を静かに照らしてゆく。  そして彼らは、暗闇が隠していた人影にも平等に光を降り注ぎ、その姿を顕わにした。  千草色の着物に鼠色の袴を纏い、白い足袋に下駄を履いた、一見十四、五歳くらいの少年に見える。  しかし、一つに括られた艶やかな黒髪は絹糸のようで、身じろぎ一つでも背で毛先が揺れるほど。袖から伸びる手や首元は細く、その肌は月光に照らされてより白さを増している。  何より、薄い唇に、すっと通った鼻筋。憂い気に伏せられた目は、同性でも目を奪われるような魅惑があり、長い前髪の奥の瞳は、黒水晶のように美しい。  そう、その姿は、絶世の美少年と言うに相応しいものだった。  彼――否、は、腰に差した、とうに禁止令が出されたはずの刀を見下ろし、そっと握った。 「――まだ、夜は濃く、深い。この闇を晴らすまで、光を届け続けましょう」  
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