2020/04 深川さんと渡瀬さん

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2020/04 深川さんと渡瀬さん

 すっかり散ってしまった桜を見上げた私は、置いてきぼりの気分を味わった。  赤茶色の額と、生え始めの若葉のちぐはぐ加減は私と新入生を表しているようだ。  まだ肌寒い風を感じながら、大学の敷地内にある図書館に進む。  通りすぎた学生はニワトリ男爵に行ってみようとはしゃいでいた。  ふと、先週聞いたばかりの安くてそれなりに美味くて量のある店を思い出す。学生ばかりが住むこの町には打ってつけなのだろう。学生ばかりが行く店なんて、誰が来るかわかったもんじゃない、ごめんだな。  友達なんていないけど。 「あ、深川(みかわ)さん」  私の名前を間違えずに呼べるのはこの大学で一人しかいない。今まで、学校や病院の待合などで、ふかがわとばかり呼ばれた。別に困ってはいない。はい、と返事をするだけだ。  私は声をした方へ振り替える。人懐っこそうな顔で周りの人達に別れを告げた彼女は、こちらに駆け寄ってきた。 「ねぇねぇ、共通科目決めた?」 「まだ」 「なんだったら、一緒に決めない?」  なんだったら、とは何なのだろう。時間があったら? 余裕があったら? もちろん、ない。  面倒でなければ? 断る方が面倒だと思ったが、気になる点が一つ。 「あの人達と決めなくていいの?」  ちらりと取り囲んでいた人達を見て、目の前の彼女に言った。  私は人付き合いが苦手だ。会話の武器である情報というものを持っていなかった。  ニワトリ男爵や私が入り損ねたサークル情報を持ってくるのは、いつも彼女からだ。眉を八の字にして困ったように笑う。 「あの先生は厳しいとか、論文を提出するだけで楽だとか。いろいろ教えてくれるんだけど、ちょっとイマイチ決められなくて」  そう、とだけ答えて、続けて図書館に行くかと問えば、よろしくと頷かれた。  横に並んで図書館を目指す。  先月まで同じ制服を着ていた彼女は、淡い色のジーンズに洒落(しゃれ)たティーシャツ、ベージュのゆったりとしたカーディガンを合わせていた。まだ春に慣れない若葉のように初々しい。  着古したパーカーを羽織る私とは違う。  同じような場所から県境を二つ越える道が違ったのだろうか。  変な方に思考を転がしていると隣から声がかけられる。 「理学部ってどんな感じなの?」 「どうって?」  彼女の質問は聞く人によって好きに取れるものだ。私はわからないから、訊く。会話は的確に終わらせたい。 「ほら、共通科目の他に必須科目があるでしょ? 人文学部はコースごとに入門? 講義があるみたいで」 「あるよ、うちも。それは考えなくても決められるから楽じゃない」  私が答えても、彼女は納得しない様子だ。何が言いたい、わからん。  彼女は鞄のストラップをいじりながら、ぽつぽつと言葉を落とす。 「……理学部って、もう学科決まってるんだっけ」 「そうだね。人文学部もでしょ?」  違うよ、と彼女は首を振った。  全く知らなかった。学部によっては入学してから学科を選ぶのか。  彼女は口を尖らせながら口火を切る。 「それがさぁ、哲学とか歴史でコースを選択しなきゃいけないみたい。コースによって教員免許取れる取れないもあるみたいで」 「なりたいの、教師に」  予想外の方向に話が進んで驚いた。  いや、そうじゃないんだけど、と彼女はぶつぶつと言っている。  散り終えた桜のトンネルを歩く。アスファルトの上にはくたびれた桜の絨毯。植木の端には周りの草に埋もれるようにして、菫が咲いていた。一本だけ咲いた場違いな花に親近感が沸く。  彼女はまだストラップをいじっていた。  図書館裏のゆるい坂道にさしかかる。 「何に困ってるか、全くわかんない」  正直に切り出せば、彼女は肩から力を抜いた。 「深川さんって、はっきりしてるから羨ましい。私が言いたいのはね、こんなに自由だって思わなかったってこと。今まで、この学校に行きたいならこの勉強を。合格したいなら、何点まで取りなさいって教えてくれたじゃない。いざ大学に入ってみれば、自分で科目を選び、自分でコースを選び、独り暮らしで今日の昼ごはんや晩ごはんを考える。大変すぎるよ」 「……自由が苦痛だと」  なるほど、理解した。 「先生がさぁ、大学は楽しいぞぉ、好き勝手できるからな! ぜーんぶ自己責任だがなっ! て言ってた意味がやぁっとわかった」  昨年、担任だった男性教諭の口振りを彼女が真似をすると、かなり可愛い印象に思えた。  あたたかい春風が二人の間を通り抜けていく。気のせいだったかもしれない。しかし、そんな気がした。 「安心して、あなただけじゃない」  ふと、弱音を溢したくなった。  彼女は不思議そうに目を丸くしている。 「私、共通科目、どれにするか全く決めてないの」  いたずらっぽく言う。少し心が軽くなったような気がした。  彼女はますます目を丸くした。腕時計を確認して私を見て、確かめるように口を動かす。 「今日の六時が締切じゃなかったっけ」 「あと七時間ね」 「人生の選択、あと七時間」  理解したくないと言うように首を振る彼女の顔から血の気が引いていく。  大袈裟な、と思ったが、事務員が登録に失敗したら、単位は取れませんので注意してくださいと脅していたことを思い出した。  仕方がないじゃないか。借りたばかりのアパートはインターネットの環境が不安定だし、買ってもらったばかりのノートパソコンでカリキュラムを組めと言われても、全くもってすっかり分からなかった。なぜ、インターネット上の専用のページにログインして登録させようとする。  そして、最大の難敵は風邪。県境を越えて見せつけられたのは気温の格差だ。水を飲むのさえ辛くて、朝晩の冷え込みを馬鹿にしてはいけないと昨晩まで思い知らされた。 「まさか、図書館でするつもりだった?」  恐々と訊かれたので、頷く。図書館には学校に在籍する者が自由に使えるパソコンがあるらしい。わからなければ、職員に聞けば何とかなるだろうと踏んで向かっていた。  彼女の歩調が速まった。歩調を変えない私の腕を引く。 「すぐ行こう、すぐやろう。手伝うから」 「ありがとう――」  素直に感謝して、彼女の名前を知らないことを思い出した。  遠くで若葉が揺れている。 「ねぇ、名前、教えてよ」 「今さら?!」  彼女のすっとんきょうな声に笑ってしまった。 (終)
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