2020/05 渡瀬さんと妹尾くん

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2020/05 渡瀬さんと妹尾くん

 午前三時、私は激しく後悔した。  年期の入ったサークル棟は映画に出てくる旧校舎のように不気味だ。点滅する電球が恨めしい。  そろりとドアノブに触れた。ひやりと、手のひらに冷気が伝わる。ドアノブに力を込めるとあっさりと回った。  どうせなら、回ってほしくなかった。開いてなかったら、諦めて帰ったのに!  逃げ出したいのを我慢して、音をたてるドアを押す。  正面は行き止まりの掲示板。左右に別れた通路。左に視線を走らせる。会議室、美術部、演劇部、と木片が立て掛けられたり、テプラーのシールと、各部がそのドアの所在を示す。左の奥から二番目のドアから声が漏れていた。元々は大きな部屋を板で区切っただけの部室は壁が薄い。  内容までは分からなかったが、人がいることに私は安心した。  いや、本当に人だろうか。照明がついていない。さっきまで見ていた映画が無意味な恐怖をあおる。  思考を封印して、右を向く。  映画研究部は右の一番奥だ。右の廊下の先は無法地帯だった。倉庫のような広いスペースは床も壁も天井もコンクリートがむき出し。各部室を美術に使われるような展示板で区切っていた。もちろん、その板は天井まで届いていない。  足音を立てないように、右の通路と呼べないような区切られたスペースを進み、目的の映画研究部へ足を踏み入れた。  机の上で緑の明かりが点滅している。  手足の長いうさぎのストラップがついた携帯を手にした。携帯が手元に戻って、肩の力を抜く。  よし、帰ろう。  ロックナンバーを打ち込んで、携帯を起動する。メッセージを確認しながら暗い通路を歩いた。 「あれ、渡瀬(わたせ)さん?」 「ぎゃあぁっ」  いきなりの呼びかけに悲鳴を上げた。声をした方を見るのが恐くて、背を向ける。目の前は行き止まり。最悪だ。  バクバクと暴れる心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。  そう、私は渡瀬だ。  人外は私のことを渡瀬と知っているのだろうか。ゆっくりと振り替える。 「えぇと……妹尾(せお)くん?」 「はい、正解」  妹尾くんは柔和に笑った。  心臓は未だに爆走しているが、何とか名前が思い出せた。  私は安堵して、彼に近づく。  妹尾くんとは同じ人文学部で、同じゼミだ。ちなみに、日付の変わる前にも同じ講義を受けている。染めたのか地毛なのか分からないが、柔らかい癖のある茶髪だ。それが彼の柔和な笑顔に似合っていた。  気になって、妹尾くんに問いかける。 「どうして、ここにいるの」 「写真の現像。渡瀬さんは?」 「携帯忘れてて……」 「わざわざこんな時間に取りに来なくてもいいじゃん」  妹尾くんが言うことはごもっともである。 「……ちょっと、さっき、携帯を落としたら、恐ろしいことになる、映画を、見たばかりだから……放っておけなくて……」  私は歯切れ悪く答えた。  映画ねぇ、と妹尾くんは何とも言えない表情をしている。 「こんな時間までよく気が付かなかったね?」 「……さっきまで有志で集まって、恐い映画鑑賞会してたんだよね」  妹尾くんの言葉に言い訳しながら私は体を小さくした。 「人のこと言えないけど、映研(えいけん)って――」 「妹尾。誰? その子」  妹尾くんの言葉を遮って、声が飛んでくる。  眼鏡をかけた美女が現れた。ぜひ、女性教師か、女医として出演していただきたい。 「同じゼミの子ですよ」  私の妄想は妹尾くんに邪魔された。  ん? もしかして、部室で妹尾くんと美女は二人きり……純愛物語。いやいや、陰謀を阻止する作戦会議を―― 「渡瀬さんのアパートって、スーパーオノヤマの近くだよね?」  またしても、妹尾くんに妄想を邪魔された。 「え、うん」  反射的に答えた後に、何で知っているんだろうと思う。  私が訊く前に妹尾くんは歩き始めた。 「じゃあ、近くだね。一緒に帰ろ」 「あの、さっきの人は?」  慌てて追いかけて、妹尾くんに質問をぶつける。自分より美女のことが気になった。  妹尾くんは振り返り、可哀想なものを見る目を寄越す。 「……帰ったよ。気付かなかった?」  深夜テンションに現実は厳しい。妄想を膨らました自分が恥ずかしくなった。  私が乾いた笑い声をあげると、妹尾くんは肩をすくめた。キザな態度も悪くない。  再び歩き出した妹尾くんの背中を追う。 「センパイ、無駄な事が嫌いだからね。あ、そう、って帰っていったよ」 「そういうの、憧れるかも」 「そうなの?」  妹尾くんは自転車の鍵を解錠しながら言った。  がしゃん、と夜の空気に響く。 「皆の意見を気にしてると、自分の意見がわからなくなるから、羨ましいなぁって」  私も自転車の準備をしながら、羨んだ。  ふーん、と妹尾くんは曖昧な返事をする。  サークル棟から、校門までの短い道を無言で歩いた。歩行者用の校門を抜けて、信号を待つ。  車用の校門は警備員に管理されているが、歩行者用はほぼ放置されていた。理学部や農学部は泊まり込みで研究することもあるらしい。警備のことはわからないが、その兼ね合いかもしれない。 「よく一人で来れたね」  妹尾くんの言葉に反応が遅れる。少し眠たかった。 「あー……こんな遅くに人に迷惑かけるのもどうかなって。あ、でも結局、妹尾くんにはお世話になっちゃったね」 「帰り道だから気にしなくて良いよ」 「私が強ければなぁ」 「あの日本人形みたいに?」 「日本人形?」  妹尾くんも妄想癖があるのだろうか。  頭をひねる私に妹尾くんは少しを眉尻を下げた。 「あ、ごめん。わからないね。この前、髪が真っ黒で長い人と歩いてたでしょ?」  日本人形。髪が真っ黒。長い―― 「深川(みかわ)さんのこと?」 「へぇ、ミカワさんって言うの」  深川さんが強いとはどういうことだろう。何となくわかるような、わからないような。  信号が青に変わる。   妹尾くんと私は自転車のペダルに足をかけてこぎ出した。訊くタイミングを外す。  妹尾くんがゼミの話題を振れば、七分の距離もあっという間だ。 「私、あの信号渡ったらすぐだから」  スーパーオノヤマの斜め向かいにあるコンビニに自転車を止める。  次の信号を渡れば、私のアパートはすぐそこだ。  妹尾くんもつられて、私の前で自転車を止めた。コンビニの明かりで表情がよく見えない。  コンビニの入店音につられて顔を向けた。  誰も自動ドアを利用していない。 「じゃあ、またね」  耳に妹尾くんの声が届く。  慌ててそちらを振り向いたが、誰の姿もなかった。 ×××  午後三時、私は自分の目を疑った。  ゴールデンウィーク明けの陽射しは目に痛い。思い出したように瞬く。  スーパーオノヤマの自転車置き場に妹尾くんがいた。 「あれ、渡瀬さん?」 「はい、渡瀬です」  私の真面目な答えに、妹尾くんは可哀想なものを見る目を返した。 「……買い物?」  買い物袋を片手に持った妹尾くんは、私に訊いた。 「うん。妹尾くんも?」 「終わったけどね」 「何作るの」 「聞いてどうするの」 「明日の晩ごはんにする」 「今日じゃなくて?」 「今日は冷麺の気分」 「冷麺良いね」 「おすすめだよ、木耳(きくらげ)キムチ」  妹尾くんが微妙な顔をしている。一回、口を開いたが考え直したのか、口を閉じる。再び、妹尾くんは口を開く。 「渡瀬さんって意外と勇者だよね」  妹尾くんは柔和な笑顔を残して立ち去った。  私は頭をひねる。  誉められている気がしなかった。  あ……明日の晩ごはん候補、聞けてない。 ×××  午前三時、私は混乱していた。  事の発端は、昭和の映画だ。木耳キムチ冷麺を食べて動画サイトを見ていたら、時計はぐるぐると回っていた。  夏祭りのシーン。山盛りのかき氷を見て、それが食べたくなった。かき氷は無理でもアイスがほしいとサンダルを引っかける。  初めての夜の散歩にくわえて、初めての深夜のコンビニ。少しわくわくした。  コンビニの入店音が鳴る。 「あれ、渡瀬さん?」  縞模様の制服を着る妹尾くん。  昨日の講義。昨夜のサークル棟。今日のスーパー。深夜のコンビニ。  もしかして、妹尾くんは、 「ドッペルゲンガー……?」 「はは、渡瀬さんって面白いね」  妹尾くんは相変わらずの柔和な笑顔だ。  私の冒険には妹尾くんがいつも付いてくる。 (終)
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