孵らぬ人

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 ヒィヒィと化け物じみた呼吸をしながら、わたしはあたりを見渡した。床に叩きつけてもだめ。それなら何か、トンカチのようなもの――。  折れかけた脚を動かして、黄ばんだ古いキャビネットを目指す。扉を開けて、乱暴に中を漁った。購入時のホームセンターのシールがこびり付いたままの、古いトンカチが出てきた。 「あっ、あは、あはははははははっ!」  わたしは気が触れたように、嗤った。  工具片手に卵を振り返り、痛みでおかしくなりそうな脚を引き摺って駆け寄った。  ヒ、ヒ、と呼吸が浅くなる。でも、あともう少し。もう少しだ……。  ガツン! とトンカチで卵を叩いた。さっきよりも確かな感覚がする。卵がいよいよ割れる、その感覚だ。  息を切らしながら、叫び出したくなった。ああ、これ。この感じ、懐かしい。あなたを産んだときのよう――。  カーテンから差す光はすでに西陽に変わっていた。燃えるような橙に支配された狭いアパートに、鈍い音が響く。真っ白な髪の生え際から浮かぶ玉の汗が、激しい動きによって床に飛び散っていく。皺の寄った唇を引き結んで、噛み合わせの悪くなった歯を食いしばって、懸命にトンカチを振り上げては叩きつけた。もう體はボロボロだ。だけど構わなかった。一目だけでも、あなたを見たいの――。  ゴチュン!!  一層激しい音を立てた時、同時にこれまでとは違う柔らかいものを突いた音がした。  卵に大きな罅が入り、ついに殻がバキバキと剥がれ落ちたのだ。  だけど私はもう一切の力が出なかった。体力も気力も、文字通り尽きた。 ――ゴチュン。  卵の割れる音と同じ音を立てて、私は床に頭蓋骨を打ちつけた。倒れたのだ。  頭が焼けるように熱い。白いモヤが視界の縁を覆い、ゆらゆらと陽炎のように霞んだ意識の中で……ちょうど、卵の大きな割れ目と目があった。  そこには、仄暗い空洞があった。何かが隠れている、闇の深さだ。瞬きすらできなくなったわたしがただじっと見つめていると、そこに突然、白い何かが転がり込んでいることに気がついた。いや、何かではない。――眼球だ。人間のような、丸い眼球が覗いていた。  それはこちらを見ていた。目が合っていた。そしてわたしは悟り、理解し、うれしくなった。ああ、あなたは――。  わたしが最期に見たものは、わたしに巣喰っていたわたしだった。孤独を選んだわたしには、誰よりも優しく、温かく、理解者であった寄生者。  この日、わたしは死んだ。  帰らぬ人となった。  そして代わりに、卵から孵る者があった。それはわたしに宿った、この時を待ち侘びた、もう一人のわたしだ。  そう、わたしはこうして孵っていくのだ。わたしはこうして帰って来るのだ。――怪異(わたし)である為に。  赤い真夏の床に横たわる、二人の物体。  潰れた卵から這い出した、小さく、新しい片方は、にんまりと嗤った。 「…………ただいま、ぁ……」 完
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