孵らぬ人

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 わたしの(なか)で、それはグルリと廻った。生温かい水をたっぷりと湛えた袋の中で水流が起こり、内臓がくすぐられるような感覚がした。  孕んでから初めてのことに、わたしは思わず小さく張り出した腹に手のひらで触れた。途端――わたしを強烈な痛みが襲った。  あまりの痛みにキッチンの床に膝を突く。手が激しく震えて、左手はシンクの縁を掴み損ねた。  ズクンズクンと、重く深い刺すような痛みが臍下に丁寧に与えられる。ブワリと噴き出した汗は、みるみる米神をなぞり始めた。 「い、痛っ! いや……嫌……痛い。痛い痛い痛い、痛あぁぁい!」  痛みの高波に襲われた瞬間、口から悲鳴が飛び出した。腹に宿る気配に過ぎなかった存在が突然、牙を向いたかのように暴れ出し、その存在を主張する。  内側から包丁で、滅多刺しにされている。そんな痛みに、突いたばかりの膝が崩れた。  食い漁っている、そう思った。  自分の中に居る小さく獰猛な何かが、子宮の壁をパックリと裂き、手を伸ばし、あらゆる内臓を手当たり次第に齧り取っていく。  這いつくばった姿勢のまま、焦りを感じる。  行儀の悪い牙は腑を乱暴に屠りながら、山になった腹の中腹から下腹部、そして股の上へと降りてくる。わたしの脚の間にある、小さな出口を目指して。  ぱしゃん。合図のように、水が破れた。  わたしはパニックに陥った。そして思った。  産まれる、と――。  瞬間、わたしの飛びかけた意識は一変した。脳が、本能が、自分の“出産”のために働いた。  洗面所の飾り棚に整然と積まれた清潔なタオルを乱暴に抜き取った。それをそのまま湯船の蓋の上に投げ置く。痛みと混乱で叫び出しそうになりながら、トタン製の大きな盥を半ば落とす勢いでバスルームの床に設置した。  シャワーが熱くなる間に、わたしは無意識のうちに、盥にバスタオルを敷いていた。今思えば、自分が産むものが硬い何かであるとわたしは解っていたのだろう。 「あ……ぅあ、あああ……ああああああああっ!」  ズドン、と一際に重い痛みが襲ったかと思うと――痛みの間隔が急激に狭まり出す。自分が心臓にでもなったかのようだった。心音で鼓膜が内側から破れた。死を連想させるような耳鳴りがピーーーーーーと等速直線運動をしている。ズタズタと滅多刺しされる間隔は既に、心臓が早鐘を打つ速度を上回っていた。  あらゆる痛みを引き連れて、それはただただ一つの出口だけを目指し、着実に、一目散に降りて来る。  訳の分からない呼吸音、振り切れたシャワーの轟音、遠い耳鳴り、抱えた心臓音、吐き出す悲鳴、百羽の蝉の断末魔……八月のバスルームの中で、音は飽和した。  わたしの體はここで限界を迎えた。痛みの波が一点に押し寄せた。ヌルリ、とそれが顔を出すその様は、ギョロリ、と怪異が人間を見つける様と同様だった。人間のわたしの意識が飛ぶ。  そう、この時一度、わたしはぷつりとが切れていたのだ――。
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