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――いってきます。
――ただいま。
――いただきます。
――おやすみなさい。
わたしの日常の挨拶は、いつしかその卵にだけ向かって放たれていた。
それに挨拶だけではない。この子を産んでからは、食事中や眠る前に仕事の愚痴や観た映画の感想など、様々なことを話しかけるようになっていた。
まるで娘のようで、次第に、わたしは彼女の話も聞きたくてたまらなくなっていた。
それは本人にも伝えるようになっていた。
「あなたはいつ孵るの? 早くあなたと、話がしたい……」
そう呟いて、眠る日々が続いた。
そうしながら、わたしの後半の人生は、出産の時の誓いと違わず、彼女と共にあった。
彼女がいつ孵るかも分らないので、次第にわたしは友人からの誘いも断るようになっていた。旅行など、日の跨ぐ予定も入れなくなった。わたしに好意を寄せてくる者もいたが、煩わしいので避け続けた。そうしているうちに、誰もわたしには構わなくなった。好都合だった。
わたしは卵のことを想えば想うほどに、社会から孤立していった。けれどそのことにわたしは気づけなかったし、気づいたとしてもどうでもよかった。孤独など気にならなかった。
ただ、彼女さえ孵ってくれれば――。
温めたら孵るのではないかなどと考え、一緒に風呂に入ったり、炬燵に入れたり、毛布を被せたりと様々試したが、蹉跌にきたした。
ただ、彼女さえ孵ってくれれば――。
やがてこの考えに取り憑かれ、盲目になり、わたしは狂い出しそうになっていた。朝目覚めた時、会社から帰ってきた時、風呂から出た時に孵っていないことにいちいち絶望し、必要以上に落ち込んだ。
ただ、彼女さえ孵ってくれれば――。
出産日や自身の誕生日、正月など、何かイベントのある日にファンタジー小説のように孵ることを期待したが、やはりこれもただの妄想に終わった。
彼女はいつの日もトクトクと生命の証を振動させながらも、ついぞわたしの目にその中身を見せることはなかった――。
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