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泣きじゃくった顔の腫れが引いた頃、僕は社の外へ出た。
メンバーはとっくの昔に準備が終わったようで、僕の顔を見るなり昴が「おっせぇーよぉー」と文句を垂れる。
「ごめん……ちょっと、用事があって」
「用事って何だよ?」
「え、枝の……封印解いたり、とか?」
動揺して返答が質問みたいになっている僕がアコースティックベースを手に取ると、先輩が昴越しに人差し指で自分の口元を指差して僕に合図をした。
「えっ……どうしました?」
「……付いてる」
意味もわからぬまま口元を触った僕は、擦った手に付いた赤色に目を見開くと慌てて服の袖で拭う。
「待たせたな」
僕の心内を知ることのない白が凛と響き渡る声でそう告げると、杜が騒めくように可憐な花びらを巻き上げて揺らす。
そのまま背筋を伸ばして僕らの前に歩き出た彼女は深々と頭を下げると、先程の枝を神主の祓串みたく僕らの前でゆっくりと振った。
サラサラと流れるように靡いた梢が薄紅の花弁の尾を垂れて揺れると、僕はこれが白といられる最後の時間である事に胸を縛られる思いで生唾を飲む。
「我は醜悪にして邪智なれば、この穢れおば何かせん……不浄を改す雅楽を奉じ、罪罰を禊ぎ祓え」
彼女は長い睫毛を伏せて言霊を吐くと、静かに瞳を輝かせた。
四方から吹く風が緩やかに草木を揺らし、花の薫りが僕らを包む。
「──いざ、舞い散れ」
白の眼が光り、僕を的確に捉える。
僕は小さく頷いて岡部先輩を見ると、先輩は目を細めてビートを刻み出す。
ベース、ギター、キーボード……それぞれの音色が重なって音が紡がれると、彼女はうっとりとした表情で枝を携えて蝶のように舞う。
長く尾鰭を引く絹の衣が幻想的にはためくたび、僕は泣き出しそうな感情を声に乗せて歌い上げる。
──泣いちゃ駄目だ……今だけは……。
今日に至るまで白を苦しめ続けたこの土地からやっと解放される儀式なら、僕は笑顔で彼女を見送ってやりたい。
文化祭のライブとはまた違った意味で震えそうな声を誤魔化すように声を上げた僕は、眉根を顰めて伝いそうになる雫を押し留める。
大きな耳と尻尾を風に任せて、優雅な足運びを披露する彼女は僕と視線が交わると、僕と同じように眉根を寄せて微笑む。
演奏の速度が下がり曲も終盤に差し掛かった頃、彼女の枝が一際大きく持ち上がって花びらを広げると、徐々に白の体が空気に溶けて色を失ってゆく。
「本当に世話になったな……未来ある汝らに大いなる祝福と加護を……!」
口を開けて笑った白は、満面の笑みに雫を溢す。
僕は思わず彼女に手を伸ばした。
もうきっと届かないと分かっていても、最後にもう一度だけ彼女の体温を確かめたくて。
「白……っ!!」
柔らかな日差しに溶け込む彼女の影が遠のき、白の姿が花びらで包まれるなか、煙を掴むように僕の手が宙を泳ぐ。
「……愛い」
僕の耳に届いた彼女の声は、それだけを残して風に散った。
膝から崩れ落ちた僕は力無く握りしめた拳を開くと、数枚の薄紅色の花弁が僕を慰めるように輝く。
苦々しいほど晴れ渡った空から差し込んだ光は、僕が自分の影に落とした数滴の涙を消し去るように暖めた。
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