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第16話 終わりの始まり (2/3)
稔の口から聞かされたのは、俺にとっては最悪の言葉だった。覚悟は決めていたつもりなのに、この展開にならないことを願うあまり、自分に都合の良いシナリオばかり考えていたと思い知らされる。
知らない町で迷子になった子どものような心許なさに押し黙っていると、稔が独り言のように淡々と続ける。
「親父と兄貴が二人で田んぼを広げて来た。親父がやめたら兄貴一人じゃ回せない。『一緒にやらないか』って、兄貴から誘われた」
「……でもお父さん、元気になるかもしれないんだろ? なのに、お前が辞めて手伝うとか決めちゃって良いの?」
感情の見えない彼を遠慮がちに覗き込みながら、抗議するかのように俺は反論する。
「親父が元気になったら、その時は近隣の田んぼ買って、もっと面積増やせばいいって。米農家は、規模デカいほうが機械も大きいの使えるから作業も楽なんだ。辞めるにせよ、今すぐは無理だけど」
稔は大きな口で唐揚げに齧り付く。まるで自棄になっているかのようだ。
違う、言いたいのはこういうことじゃない。俺は強くかぶりを振った。
「稔。それで良いのか? お前が米農家をやりたいなら、何も言わない。でも、これまでお前、一言もそんなこと言ってなかったじゃん。今の仕事が好きなんだろ? それでも、辞めなきゃいけない事情が何かあるのか? せめて、それを教えてくれよ。俺たち友達だろ?」
稔は強く唇を噛み、顔をしかめた。
ああ、そんなに噛んだら切れちゃう。咄嗟に指を伸ばして彼の唇を解こうとして、稔は驚いて反射的に口を開いた。
「……ごめん。口、切れちゃいそうだったから」
おずおずと謝ると、みるみるうちに稔の表情は険しくなる。ハアと深く長い溜め息を吐き、彼は黙り込んだ。
やっぱり、会社を辞めて米農家を手伝うの、本当は嫌なんだ。
ムスッとした表情で稔は無言のまま定食を食べ続ける。店を出ると、俺は何も聞かずに稔の後を追う。
「……お前んち、こっちじゃねーだろ」
彼はあからさまに俺がついて行くのが嫌そうだ。
「だって、まだ話終わってなくない?」
「俺んちに来るのかよ」
「ダメ? 俺こないだのレモンサワーでいいから」
彼は再び、いかにも嫌そうな溜め息をつく。何だよ、友達に対してその態度は。俺は軽くイラっと来たが、諦めずに彼の後ろをついていく。
一週間閉め切られていた稔の部屋は少し湿っぽかった。彼は荷物を床に降ろすや窓を開けて風を通す。俺は定位置の座椅子にちょこんと陣取る。
「……何、借りてきた猫みたいに。いつもなら、勝手に冷蔵庫開けて飲んでるだろ」
そんな俺の姿に稔は苦笑した。軽く茶化してくる感じは、いつもと同じだ。俺は少し安心して、のそのそと四つん這いのまま冷蔵庫に這っていき、レモンサワーを出す。
「稔は? ビールでいい?」
バッグから出した着替えを洗濯機に放り込む稔の背中に呼びかけた。
「おー」
洗濯機の回り始めた音がする。
「さっきの話の続きだけどさ。どうしてもお前が手伝わなきゃいけないのか? それで良いのか?」
どんな微妙な表情の変化も見逃すまいと、彼の横顔を食い入るように見つめる。
「いつかこんな日が来るかもしれないって、ずっと心のどこかで思ってた」
「うん、偉いと思う。だけど俺が聞きたいのは、お前の『気持ち』。くどいけど、ホントにそれで良いのか」
失いつつある恋人を必死にかき口説いているみたいだなと、ちらと思った。
実際、稔はどの歴代彼氏よりも俺と長い時間を共に過ごしている。俺の歴代彼氏を全部知っているのも稔だけ。ワーカホリックで、仕事に夢中になると恋人のことを後回しにしがちな俺の欠点を理解しつつ、それを責めないでいてくれるのも、今の彼氏ジフンと稔だけだ。下着一枚の姿で一緒にベッドに寝ていても、変な目の一つも向けてきたことがない。希少で大切な友達だ。
いかにこれまで精神的に稔を頼りにしてきたか。その彼を失いかけている恐怖で、引き留めようと俺は必死だった。
「……正直に言うよ。俺が嫌なんだ。お前が辞めるの」
これも『恋愛だったら絶対に悪手だ』と分かっていながら、思わず本音を吐露していた。
次の瞬間、俺の視界は急に回転した。
見えているのは天井だ。その間には、稔。致命的な病気を告知された患者みたいに真剣な表情だ。背中で硬いフローリングを感じ、押し倒されたのだと理解した。
「俺だって辞めたくない。その理由は……、由貴。お前だ」
綺麗なプランク姿勢を取っていた稔が、肘ドンで俺を追い詰める。吐息が熱い。それ以上に眼差しが。
「ずっとお前が好きだった」
一瞬反応を窺い、抵抗したり逃げたりしないのを見て、彼は静かに俺に口づけた。
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