第19話 賽は投げられた (2/2)

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第19話 賽は投げられた (2/2)

 皮肉なことに、匕首(あいくち)を突きつけられるような(みのる)の告白の後、俺の仕事は多忙を極めた。この頃には、さすがの俺も気づいていた。  仕事が忙しくなるのは、仕事や仕事相手のせいじゃなく、プライベートでの問題と向き合いたくない、俺の『逃げ』だということに。  そんな微妙な心理を読んだかは分からないが、有能なビジネスマンでもある恋人ジフンから連絡が来た。 『来週の木曜、東京に出張で行くことになったよ。一泊できそうだから、その夜会えないか?』  どう返信しようか悩みながら書類を整理していると、紙で指を切った。 「……いてっ」  赤い血の粒が丸くぷっくりと盛り上がる指先を恨めしげに睨み、とりあえず口に含む。  瞬間思い出したのは、稔の綺麗な指先だった。  あの指に俺の中を穿(うが)たれ、あの執念深さでねちっこく掻き回されたら……。職場で淫らな妄想をしてしまったバツの悪さで、俺は意味もなく咳払いをして席を立ち、洗面所に向かう。  顔を洗って頭を冷やす。  いずれにせよ、ジフンとは会って話をしなければ。俺は手短に彼に返信した。 『来週木曜ね。会うの楽しみにしてる。最近バタバタしちゃって、連絡できてなくてごめん』 『気にしないで。じゃあ二十時に○○駅で』  指定された駅は、雰囲気の良い隠れ家的な飲食店が多く、彼が定宿にしているホテルもある。うちの会社からも遠からず近からずだから、食事した後、俺も泊めてもらうことも多い。会社には予備のワイシャツとネクタイを置いてあるから、出社してすぐ替えれば、二日続けて同じ服だと気づかれることはまずない。   抜かりなく、相手が頭を煩わせず逢瀬を楽しむことに集中できるよう段取りを決めていくところも、有能な男だなと思う。たまに出張先で見つけた、愛や恋人を示すアートの写真を無言で送ってきたりもする。  ビジネスマンとしても一流で、優しくて情熱的な彼とは、もう半年以上も付き合っている。 「えっ、まだ半年でしょ?」  良識ある大人はそう言うかもしれない。だが俺は、ドラマならワンクールで終わってばかりの泡沫(うたかた)の恋しか経験がないのだ。一周年をどこでどう迎えようかと話し合い、ついこの間までめちゃくちゃ楽しみにしていたほど。  彼は殆ど俺を束縛しない。時折「君は俺のものだからね」とやんわり妬かれて、ああ、彼もジェラシー感じたりするんだなと思い出す。  嫉妬は彼の男の美学に反するらしい。だが、あまりに俺が仕事に夢中になっていたり、デートのインターバルが空いている時に他の男を話題に出したりすると、軽く焼き餅を焼いてくれる。そんな時はくすぐったいような幸せを感じる。  非の打ちどころが無い、完璧な恋人だ。  ……その彼を振るなんて、俺にできるのか? 彼に不満なんかないのに?  一方、俺は稔との()し方も思い出していた。  新入社員の頃、いきなり本社経営企画部に抜擢されて同期はおろか先輩たちからも白い目で見られ会社で浮きまくっていても、ゲイクラブでモテまくる姿を目の当たりにしていても、俺への態度を彼は変えなかった。  卑屈になるでも、攻撃してくるでも、見下してくるでもなく。職種や仕事内容、性的指向に関係なく常に対等な友人として俺を受け止めてくれた。  プライベートではフラれまくる情けない俺をいつも慰めてくれ、甘えさせてくれた。  ジフンと別れる理由が見当たらない。彼は完璧な恋人だ。  だけど、稔を失って、この先一人でやっていける気もしない。とは言え、仮に稔を選んだとして、彼が地元に帰ってしまえば、ますます会えなくなる。ただでさえ、ワーカホリックが理由で振られてばかりいた俺が、東京を離れる稔とうまく行くのだろうか?  俺は一週間近く、悩みに悩んだ。  顔を合わせるや否や、ジフンはそんな俺の異変に気づいた。目元には緊張感を薄っすら漂わせながら、口元には笑みを浮かべ、静かに聞く。 「由貴(ゆき)。何かあった?」  過去の彼との仕事でのガチンコのやり取りから、彼の観察眼はインベストメントバンカー並みに厳しいことは知っている。下手に隠し立てしても無駄だと腹をくくった俺は、正直に打ち明けた。 「実は稔から告白された。ずっと好きだったって。……ただ、彼、親父さんが倒れて、家業を継ぐために会社を辞めるかもしれないんだ」 「それで由貴は、彼を追いかけるべきか悩んでるんだね」  眉一つ動かさずジフンが俺の悩みを言い当てたことに、驚きのあまり声が出ない。俺がポカンと口を開けていると、苦笑しながら彼は話を続けた。 「初めて秋田君と会った時、由貴に気があることには気づいてたよ。でもあまりに身近で、由貴が彼を恋愛対象として意識してないことも分かった。だから君を俺のものにできると思ったんだ。……もう彼のことを真剣に考えてるから悩んでるんでしょ?」  交際当初から、ジフンは稔と俺の関係を正確に見抜いていたのか。その洞察力の鋭さに、改めて舌を巻く。同時に、交際当初に偶然デート中に稔と遭遇した後に、ジフンが稔を意識していたことを思い出す。気づいてなかったのは俺だけだったんだ。 「ジフン。俺、あなたに感謝してる。ワーカホリックで、とても良い恋人とは言えなかったと思うけど、あなたはいつも俺を大切にしてくれた。仕事の楽しさも大変さも共有できたし、デートはいつも素敵だった。……もちろんベッドも」  俺は、別れの言葉を口にしている自分に内心驚いていた。彼の顔を見たからこそ結論が出たのかもしれない。しかし、今の今まで疑うことなく最愛の人だったジフンを失う痛みが急激にこみ上げ、目には涙が湧き、唇は震えが止まらない。  ジフンは、悲しみと諦観の混じり合ったような表情を顔に張り付けていた。喩えて言うなら、育ての親だったばあさんの葬式で喪主を勤めている孝行孫みたいな。  いつも堂々と自信に裏打ちされた笑みを浮かべている彼に、こんな表情をさせたのは初めてだ。……そして、きっと最後だろう。 「俺とのことは、もう過去形なんだね……。短い間だったけど、君みたいな素敵な恋人と素晴らしい時間を共有できて、幸せだった。……由貴。絶対幸せになれよ」 「ジフン。俺、あなたが大好きだった」  彼は逞しい腕で俺を強く抱きしめた。俺も万感の思いを込めて彼を抱きしめ返す。厚い胸板。しなやかな胸筋。爽やかさもあり男性的な香水の匂い。大好きだったジフンの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。  大切な男を傷付けた自己嫌悪と胸の痛みとともに、俺はジフンとの恋にエンドマークを打った。
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