キミアレルギー

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 イルカショーを見終えると、娘は疲れたのか、夫の腕の中で眠ってしまった。まだこの先にペンギンエリアがあるのだけど、何よりも眠ってしまった我が子が可愛いことを知っているため、先には進まず来た道を戻ることにした。 「楽しかった?」  水族館の薄暗い通路を歩いているとき、ふと、夫が尋ねてきた。何の気なしに聞かれたその質問に、その唐突さ故か、私は無駄に驚いてしまって、少し返事が遅れる。 「楽しかったよ」 「そう?ならいいけど」  ご飯を食べているときの態度がまずかっただろうか。一瞬でも、あの日のことを思い出してしまったことを深く後悔する。せっかくの思い出を台無しにしてしまいたくはない。 「あ、ねぇ」 「ん?」 「あそこ、お客さんがメッセージ書くところある。書いてきていい?」 「いいよ。何書くの?」 「ここで娘の水族館デビューができてよかったです、って」  エイが泳ぐ巨大水槽の隅に、そこだけポワンとライトが照らされている台があった。台の上にはいろんな色のペンと付箋があって、お客さんがメッセージを思い思いに書いて、すぐ目の前の壁に貼っていく仕組みだ。  娘を夫に任せたまま、台に近寄って、黄色の付箋と青色のペンを手に取った。言った通り、[ここで娘の水族館デビューができてよかったです]と書いて、最後に夫にもらった苗字を添える。メッセージの周りに少しだけハートも描く。  すぐに書き終えたそれを壁に貼ろうと余白を探していたら、一枚の付箋が目に止まった。こんなにいっぱい貼られているというのに、たった一枚のそれだけが、目に飛び込んできてしまった。  メッセージの最後には、見たことのあるクセのある字で[黄海]と書かれている。でも、過去に見た字より異様にガタガタしている。  後ろで夫と娘が待っている。それなのにその付箋から目が離せなくて、水族館に寄せられたメッセージを読んだ。  [好きな人と来たことがあります。僕はアルツハイマーです。いつか忘れてしまうかもしれません。でも本当は忘れたくありません。 黄海]  読んですぐに、読まなければよかったと思った。でももう遅い。拙くガタガタの字が神経を刺してくるから、あまりにも痛い。  つっかえていた後悔や恨みや心残りが、嗚咽となってこみ上がってくる。まるで卵を食べたときの症状だ。嫌悪感とどうにもできない歯がゆさが気持ち悪い。こんなところで辻褄合わせなんてしたくなかった。何も知らずに、何も気にかけていなかったのは、私のほうなのかもしれない。  乱雑に付箋を貼り付けて、慌てて夫の元へ駆け寄った。どうした?と聞かれる前に抱きつく。夫と娘を、力いっぱい抱きしめた。 「佳奈子?」  ズッ、と鼻をすする。泣いていることはきっとバレているけど、隠すように娘の髪に顔を埋めた。  最後に彼に言ってしまった言葉は、きっとこれからも私を責め立て続けるだろう。夫と我が子と幸せになっていく傍らで、私は一生彼を忘れられない。 終
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