帰国、そして…

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帰国、そして…

私は、松沢病院にいて 戦争が終わったことも 果たして分かっていたのかどうか… 入院した時は、 既に人とのコミュニケーションは、 ほとんど取れない状況であったから… 垠お兄様たちは、 終戦後、色々とご苦労があったという。 私は、 武志様と離婚した後も日本にいた。 李承晩政権が、 李王家の人々の受け入れを拒んでいたからだ。 王室の庶流であることを誇っていた 李承晩大統領は、 嫡流である王公族が目障りであった。 また、 李王家の人々の帰国による 帝政復古を警戒していたためと いわれている。 1961年 韓国で、朴正煕がクーデターにより 実権を握ってから、 ようやく李王家の人たちの帰国に 手を差し伸べてくれた。 1962年(昭和37年)1月26日 韓国へ帰国した。 私は、 帰国するとすぐに ソウル大学医学部付属病院に入院した。 また、この時に日韓両国の協力を得て韓国国籍を取得した。 私の帰国後、 1963年(昭和38年)11月21日 垠お兄様と方子様も韓国に帰国した。 昌徳宮内に楽善斎という住居を構え そこに住まわれることになった。 私も、 ソウル大学病院を退院した後は、 楽善斎に住まわせていただいた。 退院したといっても、 病気が良くなったわけではなく、 ずっと病床にあり、 方子お義姉様には、 日本に居る時からだが、 親身になってお世話いただいた。 1970年(昭和45年)5月1日 垠お兄様が亡くなった。 脳血栓で倒れられて以来、 とうとう意識を回復されないままの 帰国。 さぞ、ご無念であったでしょう。 私も、長らく病に伏していた。 1987年5月25日 私の誕生日。 その日、 病院に入院していた私(徳恵姫)を 元同級で学友の閔龍児(女性)さんが訪問してくれた。 もうその頃は、 ほとんど人と話せる状況ではなかった。 それでも、 閔龍児さんが、ひょっとして…と 「昔、小学校時代の 『飛行機』という歌を思い浮かべ、 耳元で歌ってお上げしたら…」 私は、 「分かったというしるしか、 うめき声をお出しになり…」 反応したという。 「部屋の中の皆様が泣いてしまいました。」 という手紙を元同級生に送ったそうだ。 1989年(平成元年)4月21日 終わりの時が来た。 楽善斎にて看護師2名に看取られて。 その9日後4月30日 方子お義姉様も逝去されたという。 77年の生涯のほとんどを、 私は病床で過ごしたことになる。 ひとり娘の正恵も、 婿を取りながら、 心を病んで自殺してしまった。 こんな病気を持った私が母親で ゴメンね。 でも、 ふと正気が戻った時思い出すのは、 あの日之出小学校での楽しかった日々と、 武志様と結婚して、 あなたが生まれた 一番幸せだった時のことなの。 正恵にも、 そういう時があったのだと思いたい。 もし、 また生まれて来れるのなら、 今度は、普通の家の娘で産まれたい。 贅沢なんてできなくてもいいから、 武志様ともう一度 ちゃんと結婚生活を送りたい。 共に白髪になるまで。 一緒に詩を詠んで、 楽しく暮らしたい。 正恵も、 また母さんの処に来てくれたら嬉しい。 今度は人任せにしないで、 ちゃんと自分で育てて、 優しいお婿さんを迎えて、 孫の顔も見たい。 こんなのぞみは、私には贅沢かしら? 王宮も専用の幼稚園もいらない。 私が欲しいのは、 普通の幸せ… おわり
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