心を病んで…

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心を病んで…

私の里帰りの記録 1926年3月1日 徳恵姫、李垠夫妻と共に京城に出発。 純宗の見舞が目的 (帰郷1回目) 3月7日 日出小学校にて 徳恵姫の歓迎学芸会を開催 4月8日 徳恵姫、純宗の病状悪化で 李垠と京城に入り、 昌徳宮に見舞う。 (帰郷2回目) 1926年4月25日 異母兄:李王純宗が薨去。 5月8日 徳恵姫の帰京が決定。 (徳恵姫は大造殿興福軒に滞在) 5月10日 徳恵姫、京城を出発して東京に戻る 1627年4月7日 徳恵姫、純宗の一周忌のために東京を出発。10日に京城入り。 (帰郷3回目) 1928年5月1日 徳恵姫、純宗の2周忌のため京城到着(~5月12日) (帰郷4回目) 12月28日 徳恵姫、冬休みを利用して帰国。 昌徳宮に入る。 (帰郷5回目) 1929年(昭和4年)5月30日 徳恵姫の母、福寧堂梁貴人死去 (3年前から乳癌で療養) 6月2日 徳恵姫、梁貴人の葬儀参列のため京城入り。滞在は楽善斎乾物軒。 (帰郷6回目) 日本(内地)に行ってから、 朝鮮に帰りたいのに帰してもらえなくて、 私が心を病んだという人がいるらしい。 しかし、 それは間違い。 1925年に女子学習院に編入してから、 母が亡くなる1929年まで、 年に1回以上朝鮮に帰っている。 異母兄純宗の病気見舞いや 葬儀、法事、母の死など、 楽しい帰鮮ではないことが多かったが、 日之出小学校で 歓迎の学芸会を開いてくれたときや 冬休みを利用して、 ひとりで(もちろんお付きの者はいる)帰り、 一ヶ月母と過ごせた事は嬉しかった。 それでも、 私の疲れた心は、 それだけでは 癒やしきれなかったようだった。 女子学習院での生活が憂鬱になってきていた私は、 京城に戻れば、 少しは気が晴れるかと思った。 兄や母が亡くなるという 悲しい出来事での帰郷だったが、 故郷へ戻れば、 幾分でも心が安らぐのでは と思っていたのだ。 けれど、 京城に帰ってみると、 みな、恭しく接するのみで、 親しげに話しかけて来る者も居ない。 そうか、 ここへ帰ってきたら、 私は、“翁主” 皆に傅かれる存在。 もう、16歳。 早ければ嫁ぐ者もいる。 周りが、 子どもの頃のように扱うわけもなく、 私は、 高貴な大人の女性としての 振る舞いをここでも求められた。 実母が亡くなり、 故郷も、 私が安らぐ場所ではなくなってしまった。 1929年 母が亡くなって、 京城から東京に戻った。 1930年3月3日 李王坧(純宗)の薨去に伴い王位を継承、 「昌徳宮李王垠」となっていた 李垠夫妻と紀尾井町の新邸宅に引っ越した。 1930年秋頃から、 眠れなくなったり、 起きられず学校を休むことが増えた。 病院へ行き、検査を受けると、 「早発性痴呆症」 (現在の統合失調症)と診断され、 大磯で静養することになった。 あんなに、毎日が楽しく 生き生きとしていた私は、 もうどこにも居ない。 私は、 心を病んでしまったのだ…。
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