李垠お兄様と方子女王殿下

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李垠お兄様と方子女王殿下

1926年純宗お兄様が薨去され、 垠お兄様は王位を継承され、 「昌徳宮李王垠」殿下となられた。 異母兄とはいえ、 15歳も年が離れており、 私が産まれた時は、 垠お兄様はすでに日本(内地)に 来ていらした。 だから、 お目にかかったのも 私が女子学習院に入学のために 12歳で日本(内地)に来た時が 初めてだった。 垠お兄様は、 元々口数の少ないお方のようで、 とても真面目でいらっしゃった。 私は、日本(内地)に来てからは、 ずっと垠お兄様のお屋敷に住まわせていただいたが、 そんなわけで、 垠お兄様と親しくお話する事は それほどあったわけではなかった。 むしろ、 方子女王殿下の方が、 数年前(1922年(大正11年)4月)、 御長男(晋)様を、 生後8ヶ月で亡くされた悲しみを埋めるように、 私に心を配って下さった。 まるで、ほんとうの妹のように。 方子女王殿下は、 皇太子殿下(後の昭和天皇)のお后候補のひとりだったようで、 将来の皇后として恥ずかしくないよう、 お母上様から厳しい教育を受けられたそうで、 お勉強はもちろん、 料理や掃除など家事も 完璧におできになる方だった。 私も、“翁主”として恥ずかしくない振る舞いをすることは教えられてきたが、 それは、威厳を保つための、 下の者への在り方であって、 自らが料理や掃除など考えられないことだった。 もちろん、 お屋敷には使用人がいて、 普段は方子女王殿下が家事をなさるわけではない。 李王妃としての公務もお忙しいからだ。 それでも、 私を慰めるために、 自ら朝鮮の料理を作って下さったり、 苦手なフランス語のお勉強を教えて下さったりした。 方子女王殿下は、ご立派で、 垠お兄様とも睦まじく、 私の憧れでもあったが、 同時に、 “私はあんな風には出来ない”という 劣等感を抱いていたのかもしれない。 方子女王殿下は、 垠お兄様と結婚されてから ハングルを懸命にお勉強なされ、 純宗お兄様やお后様などにお手紙を差し上げて、嫁としての務めを果たされようとなさっていたのを知っている。 王宮の人たちは“拙い朝鮮語”と嘲っていたが… 私は日本(内地)に来てから、 関東大震災の後、 朝鮮人への誤った虐殺行為があったことを知った。 災害後の、人心が乱れた時期とはいえ、 日本人(内地の人)が朝鮮人をどう見ているのかが少し分かったような気がした。 もちろん、ちゃんと分かっていて、 朝鮮人をかばってくれた人たちもいることも知っている。 そして、なにより、 方子女王殿下もそうだが、 日本人(内地人)は、 物を造る人、 身体を動かすことを尊び、 卑しまない。 これが、 朝鮮人と日本人との大きな違い であることに気付いた。 だから、 朝鮮はなくなり、 日本は、近代国家として 発展できたのだと。 朝鮮人は、 頭を使う人が偉く、 身体を使う人、 物を造る人を卑しむ。 私の母は、 厨房にいた下級女官で、 実家は、 「(梁貴人の)兄が大家を相手にする肉の行商人であった」という。 つまり、 「微賤」の家の出身だ。 ところが、 幼い私は、周りから 「肉屋の妹の娘」ではなく 「王后閔妃」の娘と、嘘を教えられ、 それを信じて 伯父を蔑んでいたのだ。 日本は当時すでに 西洋的な法治国家に向かっており、 天皇・皇族の行動さえも 「皇室典範」に規定されていた。 (このため、 皇族(方子)と王公族(李垠) の結婚に際して 「皇室典範」の改訂が図らた。 結果は増補で決着) 日韓合併後、 李王家(旧大韓帝国皇室)は、 皇族に準じると暫定的にされ、 その後「王公家規範」の成立によって、 正式に日本の法律に組み込まれた。 朝鮮の続けてきた儒教的支配方法 と、 日本が確立しつつあり、 推し進めていた法治主義統治が 非常にかけ離れていた という現実があった。 この意識の差、 「皇室典範」 「王公家規範」などによる 王公族の運営も、 それまでの朝鮮式のやり方と かけ離れていたことが、 法律および日本の慣行に従う事への 朝鮮民族の抵抗感を醸成したのでは ないだろうか。 民衆レベルの端的な例として、 朝鮮総督府による土地調査に対して 「所有田」を隠そうとして 申告しなかった結果、 田を没収されてしまった者もいた。 日本の法治主義への無理解、 日本側の朝鮮の旧慣への無理解によって、 こういったことが起きた。 またこのとは、 朝鮮社会の法治主義が、 実は全く機能していなかった現実をも表している。
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