朝鮮における文化啓蒙活動

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朝鮮における文化啓蒙活動

明治末期から昭和初期にかけて、 すでに、日韓合併によって 一つの国になった 朝鮮の子どもたちへの啓蒙活動として、 多くの詩人・作家らが朝鮮や満州を訪れ 童話や童謡の口話会を行った。 その動員総数は、 のべ数十万人という規模に及んだ ともいわれ、 在朝鮮日本人だけでなく、 朝鮮人も参加していたと思われる。 (日本語が通じるようになっていたが、 言葉だけで正確なニュアンスが伝わらないためボディランゲージも活用したもよう) 日本人による童話口話会が、 朝鮮での現地の人に対する 童話・童謡の拡散に功績が 大いにあったであろう。 実際、大正13年(1924年) 『皇太子御成婚奉祝童謡集』 には、多くの子供による童謡が、 朝鮮、満州からも収められた。 その中には、 朝鮮人の子供の作品も収められ、 童話童謡雑誌として当時一世を風靡した 『金の船』の読者投稿にも 朝鮮人子弟による作品が届けられた。 後に、私(徳恵姫)の夫になった 宗武志の詩作の師である北原白秋氏も、 明治から昭和にかけて 多くの童謡を作詞した 「有名童謡作家」でもあった。 1935年 北原白秋氏も朝鮮・台湾を訪問している。 後に夫となる宗武志自身、 1924年に 詩と童謡の同人誌『槿』を発行していた。 結婚後のふたりの間に 共通の趣味、話題があったのだ。 夫武志は、 私(徳恵姫)のことを、 童謡繋がりで知っていたのだろう。 私(徳恵姫)が作詞した童謡は、 当時まだ珍しかったラジオで放送され、 1928年にはレコードも発売されている。 夫武志は、 「童謡の姫君」と呼ばれた 私(徳恵姫)を 知っていた可能性は十分ある。 当時、 澄宮様(後の三笠宮崇仁親王)が 「童謡の皇子」と呼ばれていた。 日本で「澄宮様」(後の三笠宮崇仁親王)が 「童謡の宮様」 と持ち上げられ、 童謡文化の隆盛の力になったように、 私(徳恵姫)の童謡活動も、 朝鮮半島における児童(及び婦人) 教育の喧伝手段の一環であったのだと思われる。 そのために、 朝鮮総督府を含む日本人社会から 私(徳恵姫)が、 下にもおかない扱いを受けた理由があるのかもしれない。 新日本音楽などの運動が 童謡や家庭踊・童謡踊などに乗じて 勢力を拡大しようとしていたのだろう。 そもそも朝鮮王朝時代には、 子どもを意味する 「オリニ」という言葉さえ なかったという。 この「オリニ」という言葉を 一般化させるのに功があったのが、 方定煥(パン・ジョンファン)の 「オリニ運動」 (子どもの人権尊重と文化の運動) という。 それまで朝鮮では、 子どもは「児孩(アヘ)」とか 「童蒙(ドンモン)」と呼ばれ、 一人前の人格が認められていなかった。 老人に対する「ヌルグニ」や 青年を指す「チョルムニ」と同じように、 幼い子どもたちの人格も尊重して 「オリニ」と呼ぶことを提唱。 1923年 5月2日を「オリニの日」(こどもの日)に制定し、 大人たちへ 「オリニを見下げないで見上げてください」 「オリニに敬語を使いやさしくしてください」 と呼びかけた。 日本の「童話・童謡」の文化運動は、 それまでの学校教育・唱歌教育に収まらない、 もっと子供に身近な 躍動感のある文化頒布の活動として 広まった。 子どもたちから 童話や童謡を募集する方法は、 子供たちの創意を育てるのに 役に立ったであろう。 朝鮮に住む子どもたちにも 「童話」や「童謡」を広めるのは、 志を持った文化活動だった といえるのではないだろうか。
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