日之出小学校

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日之出小学校

師の君にみちびかれつつ分け入りし   文の林のおもしろきかな 友だちと日の出の庭にたはむれし   幼きころのなつかしきかな 1939年  日之出小学校創立40周年記念号に掲載 された徳恵姫の和歌 (出典『わが赤煉瓦の学び舎    京城日出小学校百年誌』1989年) 私は、 徳寿宮の中に設けられた 『専用幼稚園』で4歳から学んだ後、 大正10年 9歳の時小学校2年生に編入した。 王宮内では 朝鮮語を使っていたが、 日本語は、 すでに『専用幼稚園』でも学んでいた。 『専用幼稚園』では 後年、京城幼稚園園長などを歴任する 京口さだ女史が、日本語の読み書き、 歌などを教えてくれた。 王宮の中は、 いまだ朝鮮時代のままのような 暮らしぶりだったが、 外へ出れば、 大正浪漫の文化が華を咲かせ、 自由と新しさを尊ぶ気風が 半島にまで及んでいて、 日之出小学校も、 自由な明るい空気が漲(みなぎ)っていた。 私が通っていた日之出小学校は、 “朝鮮の学習院” とも言われる、 上流階級の朝鮮人や 在朝日本人が通う学校だった。 日之出小学校にも、 内地での大正浪漫文化、 「童謡」の流行の影響があり、 児童に詩を作る事を学ばせ、 推奨していた。 小学校で“詩”を作ることを学んでから、 私は、 自分の心を詩に託して詠む喜びを知った。 私が作った詩は素晴らしいと、 先生や同級生、 学校の皆さんが褒めてくれ、 私は、 「童謡の姫君様」 と呼ばれるようになった。 特に、 「雨」と「蜂」という作品は、 日本の音楽家が箏で曲をつけてくれた。 その曲は京城で行われた 「徳恵姫御作童謡発表会」 で発表され、 たくさんの方に聞いていただいた。 また、 私の詩がレコードになったこともあった。 「びら」という詩に、 やはり日本人が曲をつけてくれ、 私の前で演奏してくれた。 その後、 日本ビクター (現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント) からレコードが出た。 小学校では、 私は先生からも他の児童からも敬愛され、 皆が、私の作った詩に 曲がつけられた歌を歌った。 全ての事が、 私を中心に動いているようで、 私は、 日之出小学校の“太陽”のような存在だった。 私の人生を振り返る時、 あの頃が、 日之出小学校での四年間が、 一番ひかり輝いていて、 幸せだったのだと思う。 私は、 いつだって あの頃に還りたかった。 毎日が楽しく、 希望に満ちていた。 日之出小学校の生活は楽しかった。 日本人の生徒と同じように 日本語で学び、 日本式の教育を受けた。 朝鮮では、 高貴な者は頭を使うだけで、 身体を使うことを卑しんだ。 また、 女子が学問をする事に否定的で、 漢字は男が使う物とされ、 ハングル文字さえ、 普及したのは、 日本が統治するようになってからだった。 だから私も、体育は苦手だった。 それでも、先生は、 頑張った努力を認めて 励まして下さった。 体育は苦手だけど、 音楽に合わせて踊る ダンスは楽しいと思った。 小学校へ行くようになって、 初めて詩を作る事を学んだ。 朝鮮では、 詩といえば“漢詩”のことで、 昔の人が作った詩を暗唱したり 自分が作ることも それは、 男性がすることとされていた。 女が詩を詠んだり、 音曲を嗜むなどということは、 技生(キーセン)のする事と言われ、 高貴な女性からは忌み嫌われた。 だから、 小学校に行くまでは、 詩を詠んだことはなかった。 小学校でそれらのことを初めて学び、 先生や同級生に褒められると嬉しかった。 だから、 王宮に帰ってから、 「今日は、 こんな勉強をして、褒められたの。」と 作った詩を朗読したり、 ダンスを見せたり、 歌を歌ってきかせると 「翁主様のような、 尊いご身分の方が なさることではありません。 どうぞ、お止め下さい。」 と言われた。 小学校では、褒められるのに、 どうして王宮の中ではダメなのか、 幼い私には、分からなかった。
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