第5代校長大山一夫

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第5代校長大山一夫

私は、 日之出小学校第5代校長大山一夫。 私の在職中に、 李王家の徳恵姫様を当校にお迎えすることになり、大変光栄に思うと共に、 重責を感じたものだ。 徳恵姫様は、 日本の準皇族である 「朝鮮王公族」であられるので、 くれぐれも失礼があってはならない。 徳恵姫様が編入されるにあたり、 様々な準備がなされた。 まず、 徳恵姫様と御学友の閔龍児・韓孝男(女子)、女官二人即ち五人の 控室として使用していただく部屋とするために、 校長室を改装した。 私は、教員室に移った。 この徳恵姫様の控室は、 日之出小学校の2階の 東南隅の部屋で、 閑院宮載仁親王が日之出小学校での 台覧の際に、 親王の控室としても使っていただいた部屋だ。 この部屋は、 南に南山の緑影を一望のうちに収める 最も良い位置にあり その部屋が眺めも最もよく、 また、徳恵姫様が当時所属していた 3年3組の教室の至近の位置にあった。 また、 教室内の徳恵姫様の机や腰掛は 粟色塗りのものにし、 トイレも別に建てた。 “朝鮮の学習院”の名に恥じない、 日本の学習院での皇族の方々への待遇と 遜色のない準備ができたと自負している。 次に行ったのが、 徳恵姫様と共に学ぶ “御学友”を選定する事だった。 まず、 徳寿宮の『徳恵姫専用幼稚園』時代からの学友、2人の朝鮮児童。 閔龍児-閔妃と同じ余興閔氏の閔泳瓚の娘。 閔泳瓚は日韓合併後に朝鮮総督府中枢院参議にもなった人。 韓孝男-日韓合併時に総理大臣だった李完用の甥である韓相龍の娘。 この2名は、 登下校時も徳恵姫様と一緒に行動し、 同じ控室を利用した。 閔龍児は、徳恵姫様と同い年で同じクラス。 韓孝男は、年齢が一つ上だったので 学年も違った。 その他に、 日之出小学校として 信頼のできる官僚などの子女5名 (日本人子女)を 徳恵姫様の学友として指名した。 門馬喜久子(旧姓渡辺-渡辺博士の娘 小牧民子(旧姓武田-武田視学令の娘 酒井和(知?)子(旧姓松村-松村殖産局長の娘 高橋下枝子(旧姓末松-? 杉浦喜美子(旧姓碓井-碓井氏は逓信局勤務 (上記5名他に京城府尹関水武氏(役職は1930年)令嬢「三保子」も3年3組で同級生) 教室での御座席は、 学校が選んだ学友を 徳恵姫様の御机の直後左右に 席を定めた。   祭日の場合の式典の際は、 徳恵姫様には、 私(校長)より上座についていただいた。 日本の皇族扱いだからである。 閑院宮載仁殿下が 日之出小学校を台覧された際は、 徳恵姫様は私(大山校長)と共に 到着された殿下をお迎えしていただいた。 そして宮様は、 3年3組を訪れて徳恵姫様の読方 (国語の朗読)を親しくお聞きになられた。 宮様も徳恵姫様に格別なご関心があったと拝察した。 徳恵姫様は、 昌徳宮から黒塗りで李王家の桃の紋章をつけた2頭立ての馬車で通学しておられた。 馬車の御者の他に警備係が1人乗っており、同乗者は王宮から付いてきた女官2名と朝鮮人学友閔龍児が同道した。 徳恵姫様が登校の際には、 担任が校門まで迎えに上がり、 控室へ案内した。 帰宅前には、 徳恵姫様が 女官に教員室の戸を開けさせ、 先づ私(校長)に、 次に在室の先生一同に 丁寧に挨拶された。 徳恵姫様は、 真ん中分けで、 長い髪を後ろに三つ編みにされ、 運動の時間には、 その三つ編みを揺らせて 走っていらした。 服装は、 セーラー服、和服に袴を 時に応じて着用されていた。 そして、 徳恵姫様を直接指導する訓導も、 最適任の優れた訓導を選定した。 2年3組担任、鈴木ハル先生、 3年3組、真柄(麻柄)トヨ先生 4年3組、真柄(麻柄)トヨ先生 5年3組、小川吉太郎先生 とした。 鈴木ハル訓導 大正3年から11年まで 8年間日之出小学校日に勤務 麻柄トヨ訓導 長年日出小学校に勤務し、 1928年6月23日 日之出小学校で 「勤続十年以上」の表彰を受けている。 小川吉太郎訓導 1920年から26年まで日之出小学校に勤務した後、朝鮮人の教育に従事し、多くの朝鮮半島内の普通学校・国民学校の校長を歴任。 徳恵姫様が学習院入学のために 東京へ向う当日の『京城日報』に 以下のような発言を寄せている。 (『京城日報』1926年3月28日) 「徳恵様は、 童謡に限らず一体に御熱心でした。 2,3年生頃にはよく担任教師 (鈴木・麻柄)から童謡を書いて見よと勧めますから、 自然御趣味が出て来たものと見えて、 課題の作文の終わりなどに童謡が書いてありました。 日頃非常にお友達思いの方で、 昨年五月学級で開城へ旅行して 京城に帰りついた時、 横様に雨が降っていました。 姫は昌徳宮からお迎えに来た 馬車でお帰りになり、 後で生徒たちは 家に帰るのに困りましたが、 後で『開城旅行』という 作文を課すると その最後の一行に、 「此一日はうれしいうれしい日でございました。 けれども雨の中を 皆さんはどうしてお帰りになったのでしょう。 心配心配。」 ということが認(したた)めてあります。 十二三のお子さんの気のつかない点で、 やはり自然に表れる徳の光であります。」 このように、 徳恵姫様は、日之出小学校では 「童謡」で知られており、 児童から敬愛される一方、 他の児童へも心遣いされていた。
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