第5代校長大山一夫

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清水武彦訓導(音楽教師) 「徳恵姫御作童謡発表会」で 徳恵姫様らの歌う 「てるてるぼうず」「びら」の ピアノ伴奏をした。 学習院編入後も、 徳恵姫様は、 小川・麻柄訓導とのやりとりがあり、 (学習院在学中の徳恵姫様は、 両訓導へ手紙を書いて 学習院での行事の報告などもしていた) 編入の翌年(1926年)には、 日之出小学校から 赤津基訓導を学習院に派遣して 徳恵姫様の現況を確認させていただいた。 関屋宮内次官(元朝鮮総督府学務局長) から話を聞き、 運動の時間の参観をした。 「運動場でタスキ掛けとなり、 フットボールを一同と共に お遊びなさる様を拝しては、 日之出時代のお弱く拝された御体とは 別人の如くに感じられた。」 との報告があった。 大正15年 徳恵姫様が一時帰鮮した際に開かれた 学芸会では、小川・麻柄訓導が尽力した。 ここで、 我が日之出小学校について紹介する。 小学校の名称はその時々で変わっているので、(京城日出小学校など) ここでは“日之出小学校”で統一する。 日之出小学校の前身は、 朝鮮王朝末期の1889年8月 山口太兵衛氏が 日本人居留民の子弟8,9人を集めて作った小さな寺子屋が始まり。 当時、既に先に開港していた 釜山(1877年5月)、元山(1884年)、 仁川(1885年)に次いで 4番目に朝鮮内に作られた学校である。 学校は、日本居住者の増加に伴って 規模が大きくなると共に 運営者と敷地が移り変わった。 最終的に1906年11月 『赤煉瓦』の題名にもなった 煉瓦造2階建て校舎が日出町に完成。 「スエズ以東最大の小学校」 と呼ばれるほどになった。 この敷地は朝鮮総督府にもほど近く、 総督府の高官の子弟などが入学、 また一部の朝鮮人両班の子弟も入学した。 (表向きは途中から朝鮮人の入学は受けなくなった) さらに伊藤博文統監をはじめとする 歴代の朝鮮統監・総督の訪問、 さらに、 1907年皇太子(後の大正天皇)台覧 1896年小松宮依仁親王 1922年閑院宮載仁親王 1928年高松宮宣仁親王の訪問を受け、 まさに名実ともに「朝鮮の学習院」としての格式を保ってきた。 私は、日出小学校校長としては 第5代目になる (在任期間1919年8月~1930年4月) (なお校長の前に2代の「校長心得」時代有り) 東京、朝鮮の教職を歴任した後、 日韓併合後に 朝鮮の鎮南浦普通学校校長を経て、 約5年間京城府に勤め、 京城府学務主任から 日之出小学校校長に転出となった。 校長在任期間は第4代の河合精一郎に次ぐ。 在任中には、 徳恵姫様の入学があり、 さらに閑院宮、高松宮両殿下の台覧を拝し、学校敷地を拡張し、 1929年には 「創立四十周年」記念式典も 無事に行うことができた。 「大山の足跡は、歴代校長中最も高い」との評価をいただいた。 このように、 徳恵姫様には、 朝鮮王家に対する差別は全くなく、 皇族扱いで下にもおかない対応を 日之出小学校側ではしていた。 徳恵姫様は、 日本語の教育を受けて 日本語で童謡の作詞を行った。 教師児童から敬愛されると同時に、 徳恵姫様から日之出小学校職員や同窓生へは温かく接して下さった。 徳恵姫様は、 学校関係者(校長、訓導、学友)を 宮殿などにしばしば招いて下さった。 これは姫様なりの、 日之出小学校関係者への 恩返しの心の発露だったのではないだろうか。 徳恵姫の御製 昭和天皇の第1皇女東久邇成子様(照宮様) 御誕生の際(1925年)のお祝いの歌 静かに暗の夜ははてて 明けの明星かがやきぬ 東の空はくれないの 色もめでたき日の本の 東西南北一せい(一斉)に ひらめきなびく日の御旗
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