日本へ

1/1
前へ
/16ページ
次へ

日本へ

私は、 12歳になると、 日本(内地)で学ぶことになり、 1925年(大正14年)4月 東京の女子学習院に編入学した。 日之出小学校にも 日本人の生徒や先生もいたが、 朝鮮人も多く、 『徳恵姫(とくえひめ)』として、 皆が大事にしてくれていた。 王宮でもそうだったし、 私にとっては それが“当たり前”だった。 日之出小学校では、 誰もが私を敬い、 校長室だったところを、 改装して私の控え室としたり、 私と学友のための部屋を用意したりと 私のために色々配慮して下さった。 先生方も熱心に教えて下さったし、 内地から宮様がお出ましになって、 私の授業の様子を台覧 (皇族など高貴な身分の方が見ること) されたことも何度もあった。 ところが、 日本に来てみると、 『徳恵姫』 と呼ばれるのは変わらなくても、 私は“特別な存在”ではなくなっていた。 もう誰も 私の作った詩(歌)を歌う人はいない。 誰も「童謡の姫君様」と 私を呼んでくれる人もいない。 私よりもずっとご立派な 「童謡の宮様」「童謡の皇子様」の 澄宮様(後の三笠宮崇仁親王) がいらっしゃったから。 女子学習院は、 私と同じような“高貴な身分”の生徒と 私より“高貴な身分”の生徒ばかりが集まる学校だった。 もちろん私も、 準皇族(王公族)として 粗雑な扱いを受けたわけではないけれど、 日之出小学校の時のような “太陽”ではなく、 ただのひとりの “生徒”にすぎなくなった。 方子女王殿下が、 「皆さん、 ご身分のある方ばかりで気位も高く、 あるいは、 ご不快な思いをされることも あるかと存じますが、 姫様は、王公族として皇族並みのお方です。 何も羞じることはありません。 李王家は、資産家で知られているので、 嫉妬されることもあるでしょう。 ご身分は高くとも、お手元不如意(家計が苦しいこと)の御家も多くありますので。」 と、女子学習院での生活を ご心配くださった。 方子女王殿下も、同じようなご経験をされたのだろうか。 相変わらず運動は苦手だったが、 それでも、 日之出小学校のころよりは 身体もしっかりしてきたと 自分では思うのに、 女子学習院では、 「苦手でも、もう少し頑張りなさい」といわれてしまった。 それに、 今まで学んだこともない 英語やフランス語などの 西洋の言葉の勉強もあった。 私は、フランス語が苦手だった。 日之出小学校で学んだような、 詩を詠む学習はなく、 国語の授業の中に 日本の古い和歌や漢詩を学ぶ事があるだけ。 女子学習院の1学年下には、 『幼稚園』時代に共に学んだ 趙淑鎬さんがいたから、 全く孤独だったわけではないけれど、 日之出小学校の頃との あまりの違いに戸惑うばかりだった。 日本に来てからは、 学校へ行くだけでなく、 王公族としての 公務もあった。 例えば、 私(徳恵姫)の 日本の王公族としての御公務の一端 1927年3月3日(桃の節句、雛祭り) 明治神宮外苑日本青年会館大講堂で行われた日本児童親善会主催の 「青い目のお人形さん歓迎会」 アメリカのお嬢さん達から贈られた お人形さんの歓迎会が行われ、 無邪気な千二百名の日本児童に 四十六名の米国児童が参加し、 その貴賓席に北白川、竹田、朝香、 徳恵姫の各若宮殿下が御列席された。 1927年(昭和2年)3月16日付 『アサヒグラフ』に収録 そういう時は、 大概、垠お兄様や妃の方子女王殿下が ご一緒のことが多かったが、 それでも、 もう“大人の王公族”として 振る舞わなければならないのだと 感じた。 そういう色々なことが 積み重なったからなのだろうか、 私は、次第に口数も少なくなって、 だんだん学校へ行くのが 楽しくなくなってしまった。 垠お兄様の妃の方子女王殿下が、 私のことを大変気遣ってくださり、 朝鮮料理を作るなどして 励ましてくださったが、 私の気は晴れなかった。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加