徳恵姫の日本での日常

1/1
前へ
/16ページ
次へ

徳恵姫の日本での日常

1925年3月21日 日本のラジオで、 徳恵姫作の童謡を放送 『京城日報』に 「恰度(ちょうど)近く 徳恵姫は(日本に)東上されるので そのお目見えのようでもあり 美しい詩の天才の姫を 帝都の人々は歓んで迎えようとしている。」と報道 1925年3月28日 徳恵姫は、東京の学習院に入学するために京城(現ソウル)を出発 日本留学後は、 学業に励みながら、 皇族同様の公務をこなした。 学習院時代は、 日之出小学校とは、 扱いと環境が変わってしまい ご苦労をされたのかもしれない。 1929年11月28日 上野の東京音楽学校 創立50周年式典に徳恵姫も 李王垠夫妻、 多くの女性皇族方と共に 公務として出席。 他にも多くの公務に 「準皇族」の一員として 参加している。 これらは、 多くの人の前に出る“公務”であり、 自由に振る舞える場ではないのは当然であるから、 こういったことも、 あるいは徳恵姫にとっては、 精神的な負担となっていたのかもしれない。 1928年12月28日 学習院の冬休みを利用して 朝鮮に里帰り。 徳恵姫が朝鮮に帰る時は、 ほとんどが李王垠夫妻と一緒だったが、 この時は初めてひとりでの里帰り。 (もちろんお付きはいるが) そのせいか(開放感があったのか) 新聞の記事の写真では、 満面の笑みを浮かべている。 この帰郷の際には、 母親である梁貴人と、 親子水入らずの時間が取れたようだった。 徳恵姫の母梁貴人は、 長く乳がんを患っており、 この後、 翌年5月に亡くなったのだが、 その前に会っていたことになる。 徳恵姫が、 ずっと母親から引き離されていた という俗説は、間違いだ。 死に目には会えなかったが。 徳恵姫は、 日本(内地)に来てから、 この冬休みの里帰り以外にも ほぼ毎年1回以上朝鮮に戻っている。 母親が亡くなった後は、 朝鮮に残っているのは 異母兄純宗の妻だった大妃殿下のみ。 家長である李王垠殿下とは、 一緒に住んでいたので、 朝鮮に戻る機会は亡くなった。 東京日日新聞(現毎日新聞)、 東京朝日新聞(現朝日新聞)、 読売新聞といった内地の新聞も 徳恵姫について 様々なことを記事にしていた。 また、 佐田至弘氏が関東大震災後に朝鮮から日本本土に出向き、 震災時に流布された 「朝鮮人怖い」の噂を 払拭させるための講演会を開き、 その際に徳恵姫の童謡についても紹介する活動をしていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加