乳首ノスタルジー

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乳首ノスタルジー

「なんかねえ、おっぱい触ったら悲しい気持ちになるの」  風呂に入ろうと裸になった脱衣所で、同じく裸の五歳児から、唐突に発せられた言葉にギョッとする。娘よ、お前もか。  乳首を触ると、寂しいような切ないような懐かしいような、不思議な感情が喚起される奇妙な現象を、通称「乳首ノスタルジー」と呼ぶらしいと知ったのは、大人になってからだった。  インターネット上には同様の現象を訴える人が少なからず存在していたが、この感覚をリアルで分かち合えたのは、生涯で、この娘を除くと琴音(ことね)だけだった。今はもう、どこで何をしているかもわからないけれど、彼女は私の、唯一の友達だった。 「ママー! 早く頭洗って!」  感傷に浸る間もなく慌ただしい現実が追ってきて、心の奥で開きかけた記憶の扉を、私は一旦パタンと閉じた。 *  眠りたがらない娘をどうにかなだめ、ようやく寝室に静寂が降りてきた頃、壁の向こうで玄関扉が開く音がかすかに響いた。夫が帰って来たのだろう。けれど布団から這い出す気力は湧いてこない。今日はこのまま眠ってしまったことにしようと知らんぷりを決め込んで、枕元のスマホに手を伸ばす。  新着メッセージが一通。  芽依ちゃんママからだった。心臓が、不穏な速度で鳴り始める。既読を付けてしまわないよう、恐る恐るポップアップに表示された冒頭部分だけを確認して、返信は明日の自分へ託すことにする。  どうやら、土曜日に保育園で予定されているクリスマス会のあと、数名のママ友と子連れでランチをしようというお誘いらしい。   嫌なわけではない。むしろ娘を、そしてこんな私を、仲間に入れてくれてありがとうと感謝している。けれどこんな時、咄嗟に断る理由を探しているのはどうしてだろう。明日にはきっと、笑顔の絵文字を盛って「ぜひ喜んで」などと返信しているはずなのに。  昔から、友達付き合いが苦手だった。見た目だけは取っ付きやすいのか、入学式や新学期、必ず声をかけてくれる子はいた。けれど距離が縮まるほどに、私の何かが彼女たちの機嫌を損ねてしまわないかと、そのことばかりが不安になって、常に顔色を伺うようになってしまう。    そんな風だから、関係性はいつの間にか対等ではなくなって、健全な友情を育むことができなまま、環境が変わればあっという間に疎遠になった。誰にも、心を開けたことがなかった。高校生になって、琴音に出会うまでは。  琴音との思い出には痛みが伴う。それでも、彼女と過ごしたあの日々は、間違いなく私の青春だった。今はもう、どこで何をしているかもわからない。私のことなんて、思い出したくもないかも知れない。それでも、彼女は私の、唯一の友達だった。  隣で眠る娘の健やかな寝息を感じながら、私はスウェットの裾から手を入れて、すっかり母親のそれとなった、自身の乳房の先端をそろりと摘む。  寂しいような切ないような懐かしいような、掴めそうで掴めない不思議な感情が、胸の奥から滲み出してくる。  目を閉じると、懐かしい記憶の扉がそっと開いた。
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