乳首ノスタルジー

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「キャバクラよりも、もっと楽に稼げる方法があるよ」  高一の夏休みも半ばに差し掛かった頃、例のごとく繁華街で出会ったキャッチの男が囁いた。それは風俗の仕事だった。  私も琴音も既に処女ではなかったし、性を売り物にはしていたが、直接的な性行為で稼ぐことには抵抗があった。けれどキャッチの男に提示された時給はキャバクラの何倍も高くて、単純に興味を引かれたのも事実だった。 「お酒を飲まなくてもいいし、勤務時間だってキャバクラよりもずっと融通が利くよ」  男は口が上手かったし、その頃には既にいろいろな感覚が麻痺していた。 「自分で働くのが無理だと思ったら、働きたい子を探して紹介料で稼ぐこともできるし、とにかく話だけでも聞いてみない?」  私と琴音は顔を見合わせた。話だけでも、聞いてみる? どちらからともなく頷き合った。  この瞬間に戻れたら、と何度も考えたことがある。私は全力で首を振り、琴音の手を引いて、男の前から逃げ出すことができるのに。一方で、どれだけ逃げたって、結局行き着く先は同じだったのかも知れないとも思うのだけど。  事務所だと案内されてたどり着いた先は、どこにでもありそうな、ごく普通のマンションの一室だった。  小さな玄関で靴を脱ぎ、短い廊下を抜けると、応接セットと最低限の家具、キッチンが備えられた十畳ほどの空間があった。奥には別の部屋に続く扉が二つ。周囲のビルに阻まれ陽が差し込まない室内は、昼間にも関わらず蛍光灯の光に照らされていた。  やはり、どこにでもありそうな、ごく普通のマンションの一室であることには変わりない。けれど何もかもが妙に清潔で新しく、偽物っぽい。  部屋に充満する甘ったるいムスクの香りや、ローテーブル上の異様に大きなクリスタルの灰皿、その隣の金属製の皿に几帳面に陳列された紙煙草が、ここで営まれているのが決して普通の生活ではないということを物語っている気がした。  黒い革張りのソファーには、恰幅の良い坊主頭の男がどっしりと腰掛けていた。キャッチの男が「仁さんだよ」とにこやかに紹介する頃にはもう、後悔と不安が腹の底で大きく波打ち始めていた。  鬱陶しいほどの陽射し、退屈な授業や変わり映えのない地元のショッピングモール、いつだって当たり前にある光景が遥か遠くに感じた。このまま、日常から切り離されたこの異様な空間に閉じ込められてしまいそうな気がして、帰りたくないはずの家が強烈に恋しかった。  彼は、私と琴音に一枚ずつ名刺を差し出した。一見何の会社かわからないカタカナ表記の社名と、「代表」という簡潔な役職が記されていた。
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