amuse:指輪

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5.「人形契約」  無言、ときどきミシンの音。  糸と布、型紙で足の踏み場もないこの部屋を訪れてから、そんな状況がもう半刻は続いているでしょうか。いまだ部屋の主は裁縫に夢中で、こちらには見向きもしません。  リアンはよく口の回る方でしたが、これはこれで難敵です。指輪のことを尋ねるにも、まずはそれなりに言葉を交わす必要があるというのに。 「あのー、モアさん?」  ここへ来る前。香油を擦り込んでくるマチルダから聞いた話では、モアは王立学校3年の学生であり、手芸部の部長をしているということでした。さらにどうでもいい情報として、女子生徒と交際してはすぐ別れるを繰り返しているとか。なぜマチルダがそういった事情を知っているのでしょう。 「ところでアンタ誰?」  モアは布を動かす手を止めず、銀髪の隙間から一瞬だけこちらに視線を送りました。  やっと口を開いたと思えば、一昨日の自己紹介忘れたのでしょうか。食堂でも何度か顔を合わせてきたというのに。 「改めまして、サリーナ・ブライトと申しま――」 「ダウト」 「え?」  モアは裁ちばさみを手に取ると、作業イスから立ち上がりました。遠くで見ていた時は同じくらいの背丈かと予想していましたが、思い違いだったようです。鮮やかな赤色の瞳に見下ろされ、つい後退ってしまいました。 「サリーナ・ブライトはふたつ上の学年だった……でもアンタとは別人。歳は同じくらいみたいだけど」  ここに来てまさかの事態です。サリーナ嬢がモアと同じ学校の生徒だったなんて、まったく聞いていません。生徒の数が多く、モアは知っていてもサリーナ嬢はモアのことを知らなかった可能性はありますが、今はそんなことを考えている場合では――。 「それで……アンタの正体と目的は何? 正直に話せば、お父様には言わないであげてもいいよ」  裁ちばさみの刃を胸にそっと突きつけられました。これは従う他ないようです。容疑者に素性を話すことなど、本来あってはならないことですが。  私が黎明教会のシスターであること。そして花嫁修業を嫌がるサリーナ嬢に成り代わって、この家にやってきたこと。そこまで話すと、モアはかすかに頷いてくれました。食人鬼(グルマン)のことを話さなくても済んだことは不幸中の幸いですが、これで穏便に済むわけではなさそうです。 「ロリッサ……黙っててほしければ、僕の人形になってよ」  モアは裁ちばさみを下げると、制服のポケットから白い紐を取り出しました。 「人形? 人形って何をするの?」  十代後半の男性で、人形遊びの趣味がある方とはお会いしたことがありません。  おそらくそういう意味ではないのだろうな、とモアの言葉を待っていると、「脱いで」とだけ指示を受けました。意図を尋ねますが、答えてはくれません。マチルダ同様――いえ、それ以上に表情が読めない子です。  マチルダに着せられた薄手のワンピースを脱ぐ間、モアは顎に手を当てたまま少しも動きませんでした。 「あの、脱ぎましたが」 「ふぅん」  無機質な光を宿した視線が肌を滑り、ゆっくりと上下に動いています。まだ肌寒い季節ですから、観察されているうちに鳥肌が立ってきました。そもそも着せられた下着の布面積が少なすぎるせいで、まったく防寒の意味を成していないのです。  くしゃみをひとつしたところで、ようやくモアが息を吐き出しました。 「アンタ、肉のバランスが良い」 「肉」、というワードに思わず肩を揺らしたその時。モアは先ほど出した紐を私の腕に巻きつけました。どうやらメジャーだったようです。首回り、バスト、ウエスト、と測るたびに型紙の端へサイズを書き込んでいます。 「もしかして鍛えてる?」  鍛えているも何も僧兵です――などと言えるはずもなく、教会の裏事情を知らないモアのためにもっともらしい理由を急遽考えました。 「え、ええと、教会で育てた花とか野菜を町へ売りに行きますから。それが結構重くてですね」  シスター・アグネスの言う通り、嘘と本当を混ぜるのは大変心苦しいことです。ですがこれは必要なこと、と己に言い聞かせていると、いつの間にか大量の布を着せられていました。  これは貴族の方たちが身に着ける、ドレスというものでしょう。ふだんは黒以外のものを着ることはありませんから、どうも落ち着きません。 「これ、新作。アンタの肌はシアーベースで血の色が少しだけ透けてるから寒色系がやっぱり似合う。黒もいいけど、ヘーゼルの髪と目だから……ターコイズブルーもエキゾチック感が出て面白いかも」  やっと「人形」の意図が分かりました。あれは着せ替え人形の意だったのですね。それにしても、モアがリアンさながらのお喋りになってしまいました。やはり兄弟、とはいってもリアンとは違い、こちらの話はまったく聞いてくれません。  心を無にして人形に徹する間、何度もメジャーと布が体中を行き来しました。時には髪飾りやハットを変えたり、高さの違うヒールやブーツを履き替えさせられながら。  11着目の試着を終えた頃、ようやくモアは手を止めました。最初に着てきたワンピースを頭の上から被せられたところを見ると、今夜はこれで満足したようです。 「ところで、恥ずかしくないの?」 「何が?」、とワンピースを着ながら答えると、モアは散らかした布を片付ける手を止めました。 「男の前で堂々と肌を見せて、もしかして慣れてる?」  そうでした。これは世間一般的な目で見ると異常な事態なのでしょう。任務の時はお父様の教え通り「心頭滅却」に徹しているせいで、どうもいつも以上に感覚が鈍くなっていけません。 「それはないか。シスターだし」 「ええ、モアの言う通り。シスターは常に黒のベールと修道服で全身を覆っていますから、肌を人目に晒すことなどありません。それに私はシスター……神様の手足ですから。肌を隠すことは教義で決められていますが、肌を晒すことに対して恥ずかしいという感情はありませんよ」  生きる上での恥というものは、そのような表面的なものではありません。己の意志に背くことほどの恥はないのです。そう、ふだん教会で子どもたちに説教する時のように告げると、モアは眉根を寄せました。  今の話のどこに不快な要素があったというのでしょうか。 「じゃあ、下着なしで採寸するって言ったら?」 「分かりました」
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