21人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ
amuse:指輪
1.「銀の指輪」
10月2日 海辺の教会
子どもたちに「先生」と呼ばれるなど、イーストエンドで暮らしていた5歳の頃の私は想像できたでしょうか。ですが今ここ――教会の青空教室で、私は確かに先生と呼ばれているのです。
「ロリッサせんせー、算数って生きるのにひつようあるの?」
8人いる教え子たちの中、修道服の袖を引くのは、いつもシスターたちを困らせている少年でした。
日曜の青空教室にやってくる子たちはみんな純粋で可愛いものです。それはもう、些細なイタズラも許せるほどに。
「あなたが町でお買い物をする時、計算ができなかったらお金を誤魔化されても分からないでしょ? お給金だってそうですよ。ですから算数は生きるのにとっても大切なお勉強なんです」
胸を張って言ったつもりでしたが、彼はふさふさの眉根を寄せていました。
「ならロリッサせんせーはごまかされてばっかりじゃんか」
うっかり拳を握りかけましたが、ここは我慢です。「短気は未熟者の証」と、いつもお父様に叱られていることを忘れはしません。
爽やかな潮風を吸い込み、吐き出したところで、彼は不敵な笑みを浮かべました。
「じゃあ町にオレンジを24こ売りにいって、いっこ7ペニーで売れたら、いくらもうけたことになる?」
地面に式を書くための手頃な枝を拾おうとすると、枝を取り上げられました。暗算しろ、ということなのでしょうか。
「24が7倍……だから、ええと……」
今や先生と呼ばれる私の「先生」である彼の授業を思い出しながら、一緒に式も考えます。ですが「どうしたの?」、「まさか分からないの?」といった子どもたちのざわめきが、頭を真っ白に染めていきます。
「お……大人を試すようなことをしてはいけません!」
「うわっ、シスター・ロリッサがキレた!」
鬼ごっこのようにはしゃいで逃げていく子どもたちを追いかけようと、スカートの袖を持ち上げた瞬間。
「待ちなさい、シスター・ロリッサ」
柔らかな中に棘を含んだこの声は――振り返ると、私の先生であり兄代わりでもある神父が引きつった笑みを浮かべていました。
「の、ノット?」
こめかみに青筋が立っていますが、気にしている場合ではありません。今の私には、逃げられた子どもたち全員を捕まえてイスに戻すという使命がありますから。ですが「ロリッサ」、と改めて呼ばれると、言霊を浴びせられたかのように足が動かなくなりました。
魔術などの類は信じていませんが、プリエストの位にある彼――ノットならば、もしかしたら呪文のひとつやふたつ扱えるかもしれません。ノットはゆっくりとした足取りで私の進路を封鎖し、昼下がりの太陽を背に隠してこちらを見下ろします。
「子どもたちへの授業が上手くいっていないようですね。いったい原因は何でしょうか?」
ノットの海よりも深い碧眼に見つめられると、さっぱり言葉が出なくなるのはいつものことです。が、今日はすんなりと文句が浮かんできました。
「私はやっぱり、名家のお坊ちゃんのノットとは違うんです。そもそものできが良くないんですから。お父様……神父ビショップだってお医者さんの息子だって聞きましたし」
言い切った直後。ノットの笑みが深まったのを見て、頭を狙撃されたような心地がしました。
「言い訳、ですか?」
ノットが長い長いお説教から解放してくれたのは、保護者が子どもたちのお迎えに来る少し前でした。「今日はどうだった?」と尋ねるお母さまやおじいさまに対し、子どもたちは「楽しかった」と答えていますが――それは「鬼ごっこが楽しかった」という意味でしょう。そんな中、不穏な単語が聞こえてきました。今確かに「食人鬼(グルマン)」、と。
「ほら、この夕刊。食人鬼の調査がまた難航しているらしいな」
すぐ傍にいたノットは保護者のひとりから夕刊を受け取ると、目蓋を軽く伏せました。
背伸びをして夕刊を覗き込んだところ、食人鬼の第3犠牲者である娼婦、それから遺骨発見現場の写真が載っています。
「夜霧に紛れる食人鬼……怖いわぁ。肉は残らず喰われて、骨しか残っていないってんでしょ? これが人間の仕業なのかねぇ」
「亡くなった人の身分や年齢はバラバラだっていうし、アタシたちも気は抜けないよ。天文塔の人たちが早く捕まえてくれればいいんだけどねぇ、神父様」
ノットは憂い混じりに頷いただけで、ご婦人方に言葉をかけようとはしません。代わりに「大丈夫、神とその僕(しもべ)である私たちがついていますから」、と答えると、保護者の方々は少し微笑み返してくれました。
そう。彼ら守られるべき一般の方々には、私たちがついています。彼らを安心させるためにも、お父様を守るためにも、私は――。
「ロリッサ、聞いていますか?」
保護者を見送った後のノットがこちらを覗き込んでいました。まさかお説教の続きではないでしょうね、と身構えましたが、ノットは静かに眉を下げただけです。
「今晩、あなたに『任務』の予定はありませんでしたね。ビショップからの指令でもないのに、勝手はいけませんよ」
「言われなくたって分かってますよ、そんなこと」
これ以上ノットといると、反抗期のティーンみたいなことばかり溢してしまいそうです。
特大の洗濯カゴを両肩に担いでいるシスター・アグネスの背中を見つけ、逃げるついでに手伝いへ向かおうとしたその時。どこからともなく、目の前に黒い壁が現れました。壁の正体はノットと同じ、お説教のために現れた人物です。
「ノットの言う通りだ、シスター・ロリッサ。例の件は他のブラザーやシスターがすでに動いてくれています。お前は大人しくしていなさい」
私の目にも見える神様、愛すべき父。そんな彼、神父ビショップのために私はあるというのに――困ったように笑うお父様に背を向けると、温かい手がそっと頭に触れました。
「そうむくれないで。あなたには、あなたのできることがあるはずです」
もう10年以上私を見守り、支えてくれたノットの手。彼はお父様と同じ、大切な家族です。この「海辺の教会」という名の世界――私のすべて。
心地よい熱をくれる手を振り払い、「もう子どもではないのですから」、とアグネスの後を追って駆け出しました。
そう、私はもう無力な子どもではないのです。それを証明するため、今夜も「任務」へ出ることに決めました。
最初のコメントを投稿しよう!