amuse:指輪

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 夜の任務支度はもはや慣れたものです。  黒いベールを脱ぎ、十字架を胸の中へ隠し、獲物のナイフを体中へ仕込む――夜闇に紛れて駆けるうちに、東街へあっという間に着いてしまいました。  今夜注意することは2つ。ひとつは本来調査を担当しているノットたちに見つからないこと。そして最も重要なのは、今夜こそ食人鬼の正体を暴くこと。  食人鬼は賢く、天文塔の法務局員が配置されている場所へは決して近寄りません。すると今夜もし現れるとすればここ――東町の外れ。イーストエンド手前には、風変わりな噂が立っている貴族屋敷があるのみで、特筆すべき建造物はありません。  住宅地の屋根で、腹ばいのまま息を殺すこと半刻。やがて夜霧の中から「ぎ」と短い悲鳴が上がりました。人か、それとも犬か猫かも定かではありませが、もし霧の中で今誰かが襲われていたら――すぐさま屋根から飛び降り、ガス灯の近くに降りました。  身を低くして霧をかき分けていくと、大きな影が見えてきます。かすかに動く影の中央あたりには、銀色の小さな何かが光っていました。  あれはガス灯の明かりを反射しているのでしょうか。さらに距離を詰めたところで、ナイフに手をかけた瞬間。  霧の中の不審者は、こちらを振り向く間もなく駆け出しました。「待て!」と叫びたいのを必死に抑えて足を駆りますが、一向に追いつけません。かろうじて後ろ姿が確認できる距離で走り続けるうちに、影は高い塀の向こう側へ消えてしまいました。  あそこは風変わりな噂の絶えない「狂食の館」、貴族家マダーマムの邸宅です。そして地面に落ちているのは、おそらく先ほど逃げていった何者かの胸に光っていた物――銀の指輪でした。 「私、見たんです。犯人が『狂食の館』へ入っていくところを!」  任務の翌朝。届いたばかりの朝刊を握りしめ、お父様――神父ビショップの私室へ突撃しました。言いつけを破ったことについて、ビショップは蒸気機関車の汽笛よりも甲高い声で責め立てようとしますが、今はお説教を聞いている場合ではありません。 「助けられなかったわ。止められたかもしれないのに」  今朝未明、食人鬼第4の犠牲者である浮浪者の遺骨が見つかった場所は、東町の外れ――昨晩不審者を追った、あの場所です。新聞の現場写真を見つめていると、すっかり熱を覚ましたビショップが「ロリッサ、いいかい?」と目の前に片膝をつきました。 「我々にはすべてを救うことはできない。だから、お前がすべてを背負う必要なんてないんだ」  それでも、もっと早く見つけられていたら――震える指が新聞紙に突き刺さってからしばらくして、紙面が赤く染まっていることに気づきました。いつの間にか自分の手のひらにまで、爪を立ててしまったようです。 「あ……これも未熟者の証、ですね。ごめんなさい、ビショップ」  顔を上げると同時に、こちらへ伸びていたビショップの腕が引っ込みました。 「ビショップ……いえ、お父様、どうして遠慮するの?」  神父とシスターではなく親子として尋ねると、ビショップは迷った末に白状しました。昨日私がノットに向けて言ったこと――『もう子どもじゃないんだから』、がためらいの原因であると。 「お父様はいいの。いつまでも、お父様だけは。だからこれからもずっと、私を本当の子みたいに思って欲しいわ」  するとようやく、優しい手が肩に触れました。いつも道を示してくれた大きな手、見守ってくれた優しい眼差し、安心感のある胸板――懐かしい感触を堪能していると、「お前は今までもこれからも、ずっと私の子だよ」と囁きが降ってきました。  そろそろ、好機でしょうか。 「じゃあお父様、私の話聞いて」、と顔を上げると、ビショップの目が真ん丸になりました。 「私ね、突き止めたいの。『狂食の館』、マダーマム家の中にいる食人鬼(グルマン)の正体を」 「突き止めるって、どうするつもりだ? まさか……」  ビショップの言葉を待てず「使用人か何かに化けて潜入するわ」と返すと、想像していた通り――「そんなの許せるわけがない」、がビショップから飛び出しました。  ふだん他のシスターやブラザーに対しては穏和な態度だというのに、私に対して遠慮のないところは喜んで良いのか悪いのか。言い争いが白熱してきた頃、いつものようにノットが仲裁にやって来ます。 「はしたないですよ2人とも! 声が外にまで響いています」  こうなったらノットを味方に引き込みましょう、と事情を話したところ。ノットが加勢したのはビショップ側でした。その上最悪なことに、ノットは見たこともないほど怖い顔で「それだけはダメだ」、と言い放ちます。 「こうしてる間にも新たな犠牲者が出るかもしれないし、それに食人鬼を捕まえられなかったらお父様が……とにかく、もう潜入すると決めたので」  出ていったもの勝ち――新聞を握り締め、部屋を出ようとした瞬間。 「ロリッサ!」、とノットが叫ぶと同時に左の手首を掴まれました。腕が白くなるほど力を込められるのは、覚えている限り初めてです。 「離してお兄ちゃん」 「離しません。まだ話の途中で……!?」  掴まれた手を捻り、体を前に一回転。その勢いを利用して、腕力だけでは持ち上げることのできないノットを投げ飛ばさせていただきました。 「申し訳ありませんが、もう『待て』はできません」 「大丈夫かノット!? こら、ロリッサ待ちなさい!」  ビショップ、お父様――あなたを、そしてこの場所を守るため、必ず食人鬼を探し出して参ります。  そう胸の内に唱えながらドアを出て行くと、見たことのない神父様とすれ違いました。立ち止まりお辞儀をしましたが、こちらを一瞥することなくビショップの部屋へ入っていきます。  お顔は存じ上げませんが、あのユリの紋章――おそらくビショップよりもお偉い方に違いありません。
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