amuse:指輪

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「私のファミリーネーム、話したことありませんでしたね。『マダーマム』といいます」  部屋に招き入れてはくれたものの。ノットは目の前のベッドに腰を下ろし、お祈りのように手を組んだまま床板を見つめています。 「今日でだいたい理解したと思いますが、こんな家ですから。実家の話は滅多に人にはしないようにしてきたんです」 「だからあんなに反対したの?」  やっと絞り出せた言葉に、ノットの深く穏やかな碧眼がこちらを向きました。 「それもありますが、それより! あなたは花嫁修業に申し込んでここへ来たそうですね。他にメイドの募集とかあったでしょうに。なぜよりによって花嫁……」  ノットには申し訳ありませんが、お説教を垂れながら頭を抱えるその姿にほっとしました。あぁいつものノットだ、と。 「だって使用人より、花嫁の方が入れる場所多いかもと思ったんです」  しかもちょうど良いタイミングで、身代わりを募集していたご令嬢がいたこと。私が代わりに行くと申し出たところ、たいそう喜んでくださったこと。屋敷へ潜入するための手順について話すと、ノットは深く長いため息で答えました。 「ですから今の私は、伯爵家のご令嬢サリーナ・ブライトです。ほら、安息日の礼拝にお祖母様と一緒によくいらっしゃる、あの」 「それは分かりましたが、本当にどうして……」 「どうしてはこっちのセリフです! どうしてあの時追いかけてた食人鬼がここの敷地に入っていったのですか?」  途端にノットは口を噤みました。どこか寂しげに、そして静かに首を捻ると、石油ランプの灯りに揺らめく金の前髪をくしゃりと握ります。 「それは分からない、です。家(うち)は裏の世界と関わりのある仕事をしている人もいますから、可能性が皆無とは言えませんが」  食卓にギロチンを飾ったり、夫婦喧嘩で屋敷を破壊したりする方たちでも、ノットにとっては大切な家族なのでしょう。それでも、私はこの目で見てしまったのです。 「この指輪、食人鬼らしき人が落としていったの。ノットには悪いけど、これは無視できない証拠品よ」  銀の指輪を暗い碧眼の前に差し出すと、ノットは静かに目蓋を伏せ、首にかけているチェーンを引っ張りました。 「確かにそれは、うちの兄弟だけが持つ指輪ですね。これとまったく同じもののようですから」  ノットの胸元から現れたのは、チェーンに通してある銀の指輪――当然、ノットを疑うつもりは最初からありませんでしたが。 「そう、やっぱりご兄弟を調べるしかなさそうね。協力してください、ノット。この屋敷から食人鬼を探し出しましょう」  ノットは差し出した手を握り返してくれたものの。「もちろん協力はしますが」、と歯切れの悪い様子です。 「ここにいたらあなたは、花嫁修業をやらされるのですよ? それはつまり――」 「婚前交渉を強いられるかもしれないんでしょう?」  特に間違ったことを言った覚えはありませんでしたが、ノットの顔色が赤や青に点滅をはじめました。握ったままの手まで小刻みに震えています。 「あなた、ちゃんと教義を覚えています? もし万が一間違いが起きたならば……」 『シスターは神の花嫁』――神に操を立てた身で純潔を失えば、シスターの資格が剥奪されます。ですが、そんなことは当然承知の上です。 「この私が、そう簡単に手籠めにされると思います?」 「さっきから婚前……とか、手籠め……とか、シスターに有るまじきことを言っていますからね。そんな言葉、教えた覚えはありませんが」  ノットに教えられた覚えもありません。なぜならこの手の言葉は、アグネスの授業で仕入れたのですから。 「ここに来る前、シスター・アグネスが特別に『花嫁修業対策授業』を開いてくださったのです! 予習復習が大事だって、いつもノットだって言っていますよね」  先ほどからため息が返事になっているノットは、やはり今回もため息で答えました。 「それで、シスター・アグネスからどのようなことを学んだのですか?」  意外にも穏やかな声色に、思わず「えっ」と間の抜けた声が出てしまいました。 「ええと……男女の体と心の違いとか、襲われた時の撃退法などをですね。『20を過ぎてここまで無知なのはお前くらいだ。過保護にされすぎ』、とアグネスが呆れていまし、て――?」  話している最中に体がふわりと浮き、急遽視界が反転しました。今の一瞬で何が起こったのか。いつの間にか真っさらな天井を仰いでいます。やがて視界一面に黄金の波が広がり、かすかな熱を宿した瞳と視線が重なりました。 「はい、襲われましたよ。こうされたらどうするんですか?」  耳の奥を震わせる低音は、少しも冗談めいていませんでした。両腕をベッドに押し付けている手にも、ためらいがありません。  本気だ――そう認識した後は簡単です。ノットが私を試そうとしているのならば、全力で答えるだけですから。 「骨の一本は許してくださいね」、と予めお断りを入れ、自由のきく脚を腹に引き寄せようとしたその時。耳元で「ロリッサ」、と囁く吐息の熱さに、全身の力が抜けていきました。  名前なんて、数えきれないほど呼ばれてきたはずです。それが突然「力を奪う魔法」を帯びたのは、どういった仕組みなのでしょうか。 「なぜ?」と顔を上げると、今度はノットの鼻先が頬に触れます。とっさに顔を背ければ、「自分で考えなさい。もう子どもじゃないのでしょう?」と笑う息が耳を掠めていきました。  確か先月、そんな会話をしたかもしれません。お小言をいうノットに反抗期のような態度をとったことを思い出していると、腕を押さえつけていたノットの手が手のひらまで滑り、指に絡みつきました。  やはり不思議なことに、拒む力が出ません。学問では完敗ですが、体術ではノットに負けたことなど一度もなかったはずですが。 「さぁ、どうやって撃退するのですか? シスター・ロリッサ。あぁ、今はサリーナ様でしたか」 「今撃退します、から」  ノットの手が頬に触れ、前髪が鼻先をくすぐる感触に思わず目を閉じた瞬間。 「もうイヤ! 最低最悪よ!」  廊下から響く悲鳴に、思わずノットと顔を見合わせました。 「いくらパパの言いつけだって、こんなところ無理! ここでおかしくなるより帰って怒られた方がマシだわ!」  叫びながら階段を駆け降りているのは、おそらくアイリス嬢でしょう。その後に続く宥め声は、ルイーズ夫人のものでしょうか。  廊下の会話に耳を澄ませていると、ノットが上から退いてくれました。ようやく落ち着いて呼吸できるようになったところで、平然としているノットと元通りの位置で向かい合います。 「アイリス様は確か、今夜は長男さんのところへ向かわれたはずですが」 「うわぁ、いきなりリアンですか……可哀そうに。トラウマにならないと良いのですが」 「えっ、あの方は何をされたのですか? 私明日は長男さんのところなんですけど!?」  ノットの胸倉を掴んで揺さぶると、「リアンはおそらく、あなたには指一本触れませんよ」と呆れ混じりに白状しました。 「ただ……はぁ。やはり今すぐあなたも帰りなさい」  ノットが心から案じてくれていることは分かりますが、この程度のことで帰るわけにはいきません。  たとえこの先、ノットの家族を告発することになったとしても。
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