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手を貸してくれる様子のないマチルダをその場に置き、痺れる手足で厨房まで這っていきました。
お父様のおかげで、薬の心得は多少なりと備わっています。毒の種類が分かれば、もしかしたら解毒できるかもしれません。
真っ青な視界が二重にブレる中。今晩のメインディッシュに乗っていた香草の根っこを、ダストボックスで見つけました。紫色になっていたのは、どうやらワインの色だったようです。この毒草は確か――。
「まさか貴女、解毒薬を調合しようなんて考えていませんよね?」
「え……」
誰かが目の前にいることは分かりますが、髪も肌も真っ青で判別がつきません。男性、ということは確かですが。
「まったく、夜食を作ろうと思ったのですが。こんな面倒が起きているなんて」
分からないことだらけで、ただでさえ速い心拍が尋常ではないスピードで脈打っています。息がうまく吸えないせいか、意識まで遠くなってきました。もはや自分が立っているのか倒れているのかも分かりません。
「どうぞ、食塩水です。これで胃を洗った方が早いですよ」
声が、出ません。差し出されたコップに手を伸ばしていると思っているのは幻覚でしょうか。
やがて本格的に呼吸ができなくなったのは、大量の水が口の中へ流れ込んできたせいでした。
「はい、こぼさないで。指突っ込みますよ」
後頭部を押さえられたかと思うと、喉の奥へ異物が侵入してきます。瞬間、嗚咽し、両目から涙が溢れました。先ほどの水と一緒に、胃の中身をすべて出しきれたようです。
「ゴホッ……あ、おぇ……あ、りがと、ございます……」
意識を手放すわけにはいけない、と気を張っていると、体が宙に浮く感覚がしました。どうやら助けてくださった方に抱えられ、どこかへ運ばれているようです。
やがて視界が戻ったのは、硬めのベッドに降ろされた後でした。食堂や廊下と同じ、黒と銀の調度品が並んだ居室。目の前で微笑む人物は、なぜか枷付きの鎖を手に持っています。
「リアンさん……助けてくださって、ありがとうございました。それで、これは一体?」
どう見ても彼らの仕事道具である、重厚な鎖に枷。それをなぜリアンは、先ほどまで死にかけだった私に巻き付けているのでしょうか。至極当然の疑問をぶつけたところ、「自分の部屋で人を野放しにしておくのは落ち着かない」、とお答えになりました。
なるほど、さっぱり分かりません。
「あとはそうですねぇ、趣味でしょうか。ただ向かい合ってお話するだけではつまらないでしょう?」
そういえば、今夜のお部屋訪問はリアンの番でした。先ほどまで死にかけていた女を拘束し、ワインを飲みながら平然と話ができるとは――さすがマダーマムです。
「まだ気分が優れないようですねぇ。であれば、私が勝手に話しますのでお構いなく」
「いえ、構います」
きっとこの男、昨晩のアリシア嬢にも同じことをしたのでしょう。正確には、「しようとした」が正しいでしょうか。さすが業務用なだけあり、この枷は素人がそう簡単に外せないようになっています。
「まったく、父の勝手には困ったものです。『結婚すれば当主の座を譲る』というのであれば多少は考えますが……そうだサリーナさん。助けて差し上げたのですから、少し協力していただけませんか? 私が次の当主に選ばれるよう、偽装結婚してくださるだけで結構です」
人が上手く喋れないのをいいことに、リアンの舌は絶好調のようです。元々よく喋る方なのでしょうか。
「どうして、偽装結婚なんですか? もしかして、異性に興味がない、とか」
ようやく痺れが取れた舌を動かすと、リアンは腹を抱えて笑い出しました。すでにワインボトルを2本空けていますが、顔色は白いままです。
「いえ。ただ単に成人女性が愛情の対象から外れているだけです」
「は……?」
今堂々と、小児愛者宣言をしたように聞こえましたが。いえ、早まってはいけません。ビショップのように、女神の像を恋人のように愛している可能性も――。
「そうですねぇ。対象をあえて定義するならば、15歳以下の男女でしょうか。断っておきますが、私は眺める専門です」
ここまで堂々と言われてしまうと、あれこれ口を出す気にもなりません。ひとまず「じゃあ私は範囲外のようですね」、と胸を撫でおろすと、さらにリアンは声を高くして笑いました。
笑い上戸なのでしょうか。ノットはお父様と杯を酌み交わしている時、よく泣いていましたが。
懐かしい光景を思い出していると、「あなたは昨晩のご令嬢とは違いますね」、とリアンが微笑みます。それはこれまでに見た含みのある笑いではなく、かすかに温度を感じるものでした。
「毒殺されかかってもケロッとしていますし。人が性癖を暴露しても何の興味もなさそうですしね。こんなことされたら、即出て行きたくなりません?」
狂気めいた行動に自覚がおありだったようで、逆に安心しました。
「いいえ。私は決して、ここを出て行くわけにはいきません」
このタイミングで明言しておくのも良いでしょう。まだ思うように動かない体を無理やり起こし、眼鏡の奥に光る赤い瞳を睨みつけます。
「たとえあなたに何をされようと、出て行きませんから」
これでは宣戦布告でしょうか。いつものように速攻の後悔を噛みしめていると、リアンは再び笑い出しました。
「では、あなたが『もうイヤ』と仰るまで、私の話し相手になっていただくことにいたしましょう。美食学(ガストロノミー)、舞台芸術(オペラ)、それから嗜好(フェティシズム)について……自分で言うのも何ですが、私の話は長いですよ?」
上機嫌のリアンがワイングラスを左手から右手に持ち替えた瞬間。右手の薬指に光る銀色に、思わず「あっ」、と声が出てしまいました。
「おや、どうかしました?」
なぜ今まで気がつかなかったのでしょう。そもそも昨晩はつけていなかったはずですが。
「……いえ。その指輪、きれいだなって思いまして」
長男は白。ノットも当然白。すると残るは――。
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