amuse:指輪

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4.「修羅メイド」  リアンの部屋から穏便に脱出できた、翌早朝のことです。平然とした様子のマチルダが、朝日が昇ると同時にゲストルームを訪ねてきました。 「……サリーナさま。体調がよろしいようでしたら、本日のお仕事へ向かいましょう」  文句を言う間もなく着替えさせられたのは、貴族がよく着ているという狩用の機能的な衣装です。 「ところでマチルダ。昨晩のディナーについて、聞きたいことがあるのですが」  あの毒草の件について。あれは本当に失念していただけなのか。もし一家の誰かが指示したことであれば、食人鬼の手がかりだけでなく、身の安全も気にかけなくてはなりません。ですがマチルダは「申し訳ありませんでした」、と忘れていたことを認めただけでした。 「さぁ、時間がありません。あの仕事は早朝でなければならないのです」  焦るマチルダに導かれやって来たのは、昨日も訪れた庭でした。ですがここは、テラスや蚕小屋がある屋敷付近からだいぶ歩いたところです。背の高い生垣が迷路のように並んでいて、先がよく見えません。どこへ行くつもりなのか尋ねても、舌打ちが返ってくるだけでした。  やがて視界を覆っていた生垣の切れ目を抜け出すと、朝日を浴びてきらめく水面が目の前に広がりました。 「わぁ、こんなに大きな池があるなんて」  この方角はおそらく、指輪を拾った夜に容疑者が逃げ込んでいった石壁の内側です。  外周を散歩すれば、1、2分はかかるでしょうか。ふだん見慣れている海とは違い、池の水は濃い墨色に深緑のベールがかかった色をしています。 「まさか泳げというんじゃ」 「おもしろい提案ですが、服が汚れますのでおやめください」  マチルダは淡々と言葉を紡ぐと、池のほとりに佇む古い小屋へ入っていきました。蚕小屋よりだいぶ年季の入った小屋からは、低く短い鳥の鳴き声が漏れています。 「サリーナさまには、この子たちの世話をお願いします」  カモです。十数羽のまるまると肥えたカモが、狭い小屋の中に詰め込まれています。 「末っ子のお方、モアさまの好物は彼らの肝。いわゆるフォアグラを好まれます。ルイーズさまがお体を心配されているにもかかわらず、あの粘着質野ろ……モアさまは聞き入れることなく食べ続けておりまして。それはもう、社交界では『肝食家』と称されるほどに」  フォアグラといえば、貴族の食べ物であるとだけ聞いたことがあります。まさか肉ではなく内臓だったとは思いもよりませんでした。  マチルダはカモたちを池へ放している間に小屋の掃除をするよう言いますが、手伝ってくれる様子はありません。藁塗れでブラシを擦る私を眺め、滅多に見ない笑みを浮かべている始末です。その様子に「そうか」、と腑に落ちました。  花嫁候補を――私を追い出したがっているのは、兄弟たちだけではなかったのです。彼らに頼まれた様子もありませんから、きっとマチルダの意志なのでしょう。娘に毒リンゴを食べさせた、白雪姫の継母さん。娘を奴隷のように働かせた、灰かぶり姫の継母さん。その要領で私をいびり倒し、追い出そうとしているのです。  するとこれは、嫉妬ゆえのいびり。きっとマチルダには兄弟の中に想い人がいて、私が邪魔なのでしょう。毒の件も、私を追い出すためだったのでは――。 「先ほどから何をぶつぶつ仰っているのですか? もっと腰を入れてブラシを擦ってください」 「大丈夫ですよ、マチルダ。私は彼らにそういう興味はございませんから」 「はい?」  慌てて口を塞ぎましたが、マチルダは「何のことですか?」、と首を捻っています。  危ないところでした。  花嫁修業に来ているという設定ですから、花嫁候補が花婿にそういった興味がない、というのは不自然でしょう。家柄だけに興味がある、という方も中にはいるかもしれませんが。  不慣れながらも小屋の掃除を終え、蚕小屋の方まで戻りました。マチルダはいびりの手ごたえを感じなかったせいでしょうか、ムッとした様子です。  そんなマチルダを呼びに、白髪と立派な白ヒゲを三つ編みにしたおじいさんがやってきました。家人からの呼び出しを受けたというマチルダに代わり、「庭師のエルダー」と名乗られたそのご老人が私を次の場所へ案内してくださいます。 「ここは私の宝箱――グリーンハウスです。ルーシー様」 「サリーナです」 「ええ、はい、すみませんでした。アメリア様」  からかっていらっしゃるのかと思いましたが、もうかなりご高齢のようですし、仕方ないのでしょう。いちいち訂正せず、教会の礼拝堂と同じくらい広い温室の紹介に集中しました。  ここは鳥のさえずりが聞こえてきそうなほどにのどかです。黒と銀の屋敷とは違い、太陽の光と自然の緑に溢れています。 「良い場所ですね。ずっといたくなるくらい」 「ええ、ええ、そうでしょうとも。ですが次の場所も大事ですよ、トレーシー様」  そこでは彩色から一変。黒と銀の世界に引き戻されました。庭に堂々と陣取っているのは、食堂のものよりも数倍は大きいギロチン――本物の断頭台です。
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