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「今や処刑場は中央区の天文塔にありますが、百年も昔はここが本場だったのです。せっかくですから上がってみますか?」
できれば一生上がらないで済ませたい場所に、「せっかくだから」という理由で体験させるとは。やはり彼も、朗らかな好々爺に見えてマダーマム家の使用人です。
「ぜひどうぞ」、と急かされて上ってみましたが、特に楽しい気分にはなりませんでした。分かり切っていたことですが。
「このギロチンというものが中々の性能でしてねぇ。誰がやっても簡単に済むのです。昔は伝統に倣って首狩り鎌を使っておりましたが、これには特別な技術と修練が必要でして。マダーマム家をはじめ、いくつかの処刑屋が腕前を競ったものです」
今後生きていくうえで特に役立つことはなさそうですが、ご老人の話はしっかりと聞くものです。
適当な相槌を交えていると、やがてマチルダが早足で戻って来ました。先ほどよりも苛立ちがしっかりと表に出ているようですが、その原因については話してくれません。ただ「あの賢者野ろ……」と言いかけていたため、誰からの呼び出しだったかは予想がつきます。
「ところで。本来の役割を失ったここは、今やフェンシング場になっておりましてね。エライザ様は、フェンシングの心得はおありで?」
断頭台下の倉庫から、エルダーが剣と防具を取り出してくると。「ない」と答えるよりも早く、剣先を目と鼻の先に突きつけられました。
一体いつ、マチルダは剣を取ったのでしょう。
「サリーナさま……せっかくですから体験していかれませんか? 軽い体験ですので、防具はなくてよいでしょう。大丈夫です、当然加減はいたします……死なない程度に」
これはまずいことになりました。マチルダの殺気が、「絶対に断らせない」と言っています。ですがこちらも本気でお相手をするわけにはいきません。ご令嬢はか弱い存在だそうですから、「間違っても僧兵としての力を発揮するな」、とシスター・アグネスに固く命じられています。
これほど長い剣を扱う事はふだんありませんが、慣れていないという事はむしろ好都合。これならば、存分に下手なフリができそうです。
「準備はよろしいですか?」
「はい、いつでもどこからでも!」
そうは言ったものの。マチルダの瞬発力、身のこなしは手加減を通り越していました。最初の一突きが、真っすぐに喉をついてくるとは――これが素人に対する動きでしょうか。
ダメです。本気でこられてしまっては、信条の都合上、本気でお返ししたくなってしまいます。ですがここはグッと我慢を。かつ間違っても致命傷を負わされないよう、紙一重で剣先をかわして――時々足元がおぼつかないフリをしなくては。
「っく……強い」
と、息が上がっているフリ。ですがその言葉は嘘ではありません。マチルダと同じ年頃のブラザー、シスターたちの中で、ここまでの動きができる子はいませんから。
どこかで折り合いをつけなければ、試合が永遠に終わらなくなりそうです。ここは私が転んで、「参った」と言うしか――。
断頭台は清掃が行き届いていて、都合の良い小石はありません。ひとまず自分の足に自分の足を引っかけるしかないのでしょうか。試合に勝つより困難に思われる転倒方法を、いざ実行したその時。「あっ」、と後悔の声が出た頃にはもう手遅れでした。
視界いっぱいに緋色の髪が舞い、風が散切りになった髪を晴天へさらっていきます。
わざとこけたフリをした、一瞬のことでした。私の持つ剣が、ちょうど懐に入り込んでいたマチルダのツインテールを片方切り落としたのです。
「髪は命」という女性もいらっしゃいます。いくら事故とはいえ、何という事をしてしまったのか。
「その……なんて、お詫びしたらいいか」
やがて言葉を失っていたマチルダの両眼から、大粒の涙が伝いました。声を上げることもなく、マチルダは床に落ちた髪を拾い集めます。
そして集めた髪を――私の口元へ押し付けたのです。
「食べてください……まだ食べ頃じゃなかったのに! 食べて! この子たちを弔って!」
幼い泣き顔に迫られましたが、口を開けるわけにはいきません。これは食べ物ではありませんから。そう諭す前に、マチルダは自分の髪を貪りはじめました。
一体、何が起こっているのでしょう。思考が停止しかけていると、古傷だらけのたくましい手がそっと肩に触れました。
「この子は、マチルダは食毛家でして。あぁ、人毛以外は食べないのでご安心を」
リアンが繭を好むのと同じように、マチルダは髪の毛を好むというのでしょうか。ですがその情報のおかげで、光明が見えました。ずっと握ったままの剣を自分の首筋に当て、適当な量の髪を切り落とします。それをマチルダに差し出すと、彼女は涙と咀嚼音を引っ込めました。
「ごめんなさい。これで許していただけないでしょうか」
ただじっと私の髪を見つめたまま、マチルダは固まっています。やがて遠慮がちに手を伸ばすと、マチルダは私の髪をそっと口に運びました。
目を逸らしたいような、心配なような、妙な気分になります。1本残らず完食したマチルダが口にしたのは、これまでの行いへの謝罪でした。
「サリーナさまが、奥方さまの……ルイーズさまのタイプだったので、つい意地悪を」
「……っ、そっちですかぁ〜」
嫉妬による嫌がらせ、という予想は当たっていましたが。ご兄弟ではなく、まさかまさかの奥方とは。
毒の件は笑いごとで済まされませんが、すっかり憔悴した様子のマチルダをこれ以上責める気にはなれません。よくシスター・アグネスには弟妹たちに甘いと言われますが、まことにその通りだと思います。
「サリーナさまのお髪……とても美味しかったです。また後で、くださいますか?」
マチルダの潤んだ瞳が、熱をもってこちらを見つめてきます。
あぁ神様、お父様――昼間からこの調子では、今夜の末っ子訪問まで気力を保てる気がいたしません。
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