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【プロローグ】
私はいつも見上げていた。狭くジメジメとした井戸の中で、はるか上空に点在する白く煌びやかな光を数えながら、目にそれを宿していた。お師匠さまは“星”とよんでいた。
水のない井戸の底には、ほとんど陰と同じ色の苔が生えている。石段の隙間や表面にこびりついたそれを指でなぞると、ぬめり気のおびた深緑の塊が指の先に現れた。と思えば、自分の重みに耐えきれずぽとりと落ちた。
なにもない井戸の底で、私は寝そべって、届きそうもない星に手を伸ばす。いつか行ってみたい、そんな願望を妄想するが、背中に伝わるじわりとにじんだ冷たさが現実に連れ戻す。
「貞子、入るよ」
星を遮って頭を突き出している。距離も遠ければ、星の明かりしかない井戸の底では顔は墨塗りになっていた。壁に声が跳ね返り、さらに跳ね返る。波のようにもわんとこだまする声に安堵する。
彼女は井戸の側面にある出っ張りを巧みに使ってゆっくり降りてくる。均等に飛び出た石は地上から底まで、まっすぐ伸びている。ピタッピタッと、実際には無音が響いているのに、頭の中では足取りに合わせてそう聞こえてくる。彼女の真っ白な足が井戸の底へ着くのをいまかいまかと、下から見守る。
「お師匠さま! 新しい脅かし方考えたんです! これで人間もびっくらこきますよっ」
「そうかい。じゃあ基礎練が終わったら見せてもらおうかね」
喉の奥から声が跳ね出るように返事をする。白いワンピースを着た、黒くて地面まである長い髪の毛のお師匠さま。お師匠さまいわく、これが正装らしい。私も小さいながら、白い質素な服を着ている。ふたり並ぶとまるで親子のようにも見える。
「お腹から吸って、膨らみをキープしたまま、喉を鳴らす」
「ゔゔゔぁぁ……」
「そうそう、徐々に恨みと憎しみを混ぜていって」
立派な貞子になるために、日々試行と錯誤を繰り返す。お師匠さまも、毎日来てくれるわけじゃない。むしろ、私ひとりの時間がはるかに多い。練習といいつつ、退屈しないように、変な声を出して、ひとりで笑って。だから、記憶の隅から取り出してきたような久方ぶりの感覚が全身をまとう。毛が逆立ち、気づくと頬にくぼみができていた。
練習、雑談、また練習。お師匠さまと過ごしているときは、天に煌めく星など頭の片隅にもなかった。ただ、彼女だけを焼きつけていた。
「じゃあまた来るよ貞子。いい子にしてるんだよ。あ、そうそう、さっきの決めポーズ、ダサいからやめときな」
「えぇぇ! いいと思ったのに……」
「まあそんな落ち込むな。貞子はきっと、いや絶対、いい貞子になるよ。私が保証する」
「お師匠さま……」
長い髪の毛をふさりとゆらし、「じゃあ」とひと言置いて地上へ戻っていった。あんなに騒がしかった井戸の底は眠りについたようで、私の息をする音だけが耳に入ってきた。肩が急に重くなり、全身の力が底に垂れ流れる。ぐてんと寝そべって空を眺める。相変わらず、届かない位置に君たちはいる。
「そうだ」
足の反動で起き上がり、壁に手を当てる。さっきお師匠さまが登っていった場所をさする。出っ張りは見ただけじゃ陰に隠れてわからない。でも確かにそこに、登る場所がある。
私はまだ修行の身で、基礎中の基礎しか教えてもらっていない。ここを登るのもたぶん御法度。出っ張りに手を食い込ませるが、思うように力が入らない。肘のあたりが罪悪感という違和感でむずむずする。それでも心臓は早鐘を打つ。早く行きたいとせかしてくる。
「大丈夫、すぐ戻ってくれば問題ない、うん。登る練習も必要だしね」
一段、また一段、天に向かって四肢を動かす。下を見ちゃだめだと自分に言い聞かせて、壁を向いていたら、あっという間に頂上に辿り着いた。ふーっと息を吐いて井戸の縁に腰をかけた。やにわに頭を、目線を上へ持っていくと、星があった。
いつも見ている以上の数が目に映る。しかし、そのほとんどが木に隠れて、私の期待は井戸の底に真っ逆さまに落ちていった。体の熱がおさまり、顔に力が入っていたんだなと、下に垂れた頬で知った。風もなく、音もなく、ただ空間が広いだけで、井戸の底となにも変わりはしなかった。
“ビビッ”
星の輝きの数倍もの光が流れ込んできた。たまらず左側をかばって目を瞑る。落ちそうになる体を、脚を伸ばしてなんとかバランスを保った。
光はまだそこにいる。
薄目を開けて、徐々に情報を増やしていく。奥のほうで光っているそれは四角い形をしていた。真四角で青白い光を放っていた。星とは違い、目の奥をじりじり焼き照らす光だった。
「もしかして……あれがテレビ? お師匠さまが言っていた、人間を驚かすための入り口。もし私が立派に貞子をやったら……お師匠さまに褒めてもらえるかも!」
すとんっと井戸から降りて、喉を二、三回鳴らす。練習どおりにすれば問題ない。そんな希望的な願望、いや妄想は井戸よりも深いところにあった。人間が見ているであろう光に向かって、前髪を垂らして、呻き声を出して歩いていく。
遠くに見えたはずの光は思いのほか手前に位置していた。とても小さなテレビだった。お師匠さまは片足しか、もしかしたら指しか入らないかもしれない。私も入れるか微妙な大きさだった。
——やるのよ……私は貞子なんだから!
両手を光の中に入れて、外枠に指を引っ掛けて力を込める。体がつっかえても、力を緩めなかった。歯を食いしばって、脅かすことを忘れて、血管が浮き出るほど力み続けた。
「よし抜けた……ってえぇぇぇぇ!!!」
勢いよく飛び出した次の瞬間、体を支えるものもなく、暗闇に吸い込まれていった。微かに目に映った青白い光は離れていき、パチッと消えてしまった。
運命という代物に呪われるなんて、このときは考えも、妄想もしなかった。
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