【第八回 作戦会議】

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【第八回 作戦会議】

 ベッドの脚に身を隠して人間の動きを観察する。ひき子、私、ちさの順で上から頭をひょこっと出している。机の上に置いていたスマートウォッチと空き箱を自室のほうへ持っていき、元々登る予定だった机へ置いた。  空き箱を丁寧に飾り、一方スマートウォッチは乱雑に放り投げていた。代わりに、手首には腕時計なるものをつけていた。 「あいつ、高級ブランドの時計してるなんて……。 どうせ女よそうに決まってるわ!! 愛しの彼女からのプレゼントで機能より愛をとったんでしょうね! かぁー! 金欠童貞顔なのになにデレデレしてんのよ! こっちだって保育士になって子ども話でイケメンパパと仲良くなってゴールインしたいわ!!!」 「ひき子、キャラ崩壊してるよ」  ひとり爆発しているひき子を宥めて、状況を整理する。井戸の底に帰るにはあのスマートウォッチが必要で、充電とよばれる行為をしなければならないそうだ。机の上に持っていかれたいま、あの机を登らないといけないことに変わりはないらしい。  人間がベッドの上にのった。ぎしぎしと音が鳴り、またひとりごとを楽しそうにしゃべっている。まるで相手がいるかのように、とぎれとぎれの文章だった。こうなると、時期に部屋は真っ暗になる。いくら心霊とはいえ、暗視の能力など持ち合わせていない。おとなしく寝床に戻ることにした。  ベッドの下の壁際、ひそかに光っている場所がある。ティッシュの箱で隔たれた向こうには広々とした空間がある。カプセルが三つ、畳まれたティッシュが角に、その隣にはむささび作戦の布が置いてあった。  ここが私たちの拠点だ。 「いやー疲れたわねぇ。あーなんかもうここで寝れそう」  床に寝転んだひき子は大の字になり、だらりと寝返りをうった。私もその横に座り込みくたびれた足を労った。知らない間に、今日は歩いていたらしく、石のように固かった。ちさはカプセルがお気に入りのようで、透明なほうをわきにやって、赤いカプセルにちょこんと身を置いた。  豆電球の柔らかな光が影を長く伸ばす。しばらくおのおの体を休めて、耳と口だけ本題に入った。 「あの壁どうやって登る?」 「ひき子が全力で投げ飛ばす」 「いまぶっ飛ばそうか?」 「貞子、ばいばい」  話し合いは相変わらず進展はなかった。壁を登る方法を話題にしていたはずが、気づいたら別の話になっていた。それが何度も繰り返され、跡形もなく消え去った。  雑談に花を咲かせる。ころころと転がって、ちさのカプセルに侵入する。 「髪の毛めっちゃさらさらだね。なにかつけてるの?」 「つける、ない」  彼女に気づかれないようにすーっと髪留めを外そうとしたが、普通にばれてしまった。そのままちさ髪の毛を使って遊び始めた。  三つ編み、ポニーテール、お団子など。ひき子が指示を出して、私が編み込んだ。髪の形にも名前があるんだと知り、自分の髪の毛をおもむろに撫でた。 「あたしがやってあげるわよ」  ひき子はそういって腕まくりをし、ちさの髪留めを借りた。慣れた手つきで髪を創造していく。されるがまま時間が過ぎていき、カプセルの反射を利用して確認する。そこに映っていたのが自分だと思いもしなかった。  ボサボサの髪の毛が綺麗にまとまり、自然と背筋が伸びる気持ちだった。何度も角度を変えて眺める。編み込むだけで、こんなにも印象が変わるんだと、胸が躍った。 「ひき子、やったげる」  ちさは依然としてカプセルに入ったまま、手を握って開くを繰り返して手招きをしている。ひき子は近寄ってしゃがみ込むと、ちさに髪の毛を託した。  見様見真似、そんな感じがした。あるいは自分の髪と同じやり方でしばってあげてるのかもしれない。髪の長さが足りず、虫の触覚のようにひょこんと頭の上で跳ねた。悪いとは思いながらも、私とちさは口を開けて笑った。 「やったわねぇー! おりゃー!!」  飛び上がってカプセルの中に突っ込んできた。狭いカプセルの中に三人がもみくちゃになり、とうとうひっくり返ってしまった。地面になだれ込み、上に人が乗る。それが幸せだった。友達と遊ぶのがこういうものなんだと、ふたりのおかげで知ることができた。  寝そべったままでも、こりずに指を伸ばして脇腹を突っつく。はしゃいで、笑い疲れた三人はまた静かに、おのおの影を伸ばした。気がつけば人間は就寝したらしく、寝返りで擦れる布の音が聞こえた。 「あたしたちもそろそろ休むとしますか」 「「えー、やだ」」  姉妹のように声が重なり、ひき子にため息をつかせる。 「夜更かしする悪い子は引きずりまわすわよ」 「あーひき子がひき子してるー。じゃあ私テレビに引きずりこむ!」 「ちさ、質問、やる!」  静まりかえった海はまた波音を立てる。ぴちぴちと飛沫をあげて夜の闇に消えていく。時間も、人間も、目的も気にしなくていい空間がここにあった。居心地がいいと思ってしまった。  ベッドの下の小さな灯りが消えるのはもう少しあとのことだった。     それから毎日、机の壁に登る方法を模索した。むささび布のおかげで行動範囲が広がり、新しいものを発見した。しかし結局、壁を登るという行為がはなはだ難しく、新発見もただ好奇心をくすぐるのみにとどまった。  気がつけば一週間が過ぎ、今日もまた、難題に頭を悩ませる。 「んー難しいなぁ……かくれんぼか鬼ごっこか。ひき子はどう思う?」 「いやなにしてんのよ!!!!」  テレビの前に置いてある机はもはや第二の拠点になっていた。最初は危なっかしかったちさも、いまではひとりでここまでこれるようになった。いつもどおりなにして遊ぶか悩んでいたら、ひき子が激怒した。  特別それに反応するわけでもなく、寝そべりながらむささび布をいじくってたわむれている。半ば独り言のようにひき子は言葉をつむいだ。 「まったく進展がないじゃないの! もう何日こんなことするつもりなのよぉ。新しいアイディアが全部没よ! おかげで拠点がちょっと豪華になったけど! それじゃないのよぉぉぉぉ!」 「そうはいっても、針は刺さんないし、投げ縄は届かないし、てこの原理で机崩壊作戦なんてびくともしなくて、いまじゃ遊び場と化してるし」  怠けているわけじゃないからこそ、結果が出ないのが悔しかった。汗水流して素材を集めて、何度も微調整して確かめたり、それでもなおあの壁は高過ぎたのだ。  作戦の半分はひき子が考えたもので、当事者の私よりも張り切っていた。だからだろう、失敗するたびにひどく落ち込んでいるのは。私のために手を貸してもらっている手前、無責任な言葉はかけられなかった。焦らなくていいと、口に出すのをためらってしまう。  むくっと体を起こして、頭から煙を出して倒れているひき子に寄り添う。もちもちの肌をうりうり揉みほぐした。ひき子がなにか言っているが、まったく聞き取れない。気持ちよくてついつい触ってしまうが、そろそろやめないと怒られるので、手を離した。 「あんたほんと好きよねぇ」 「えへへ」  ひき子は大きくため息をつき、立ち上がって背伸びをした。光が部屋全体を色鮮やかにし、体をほんわか暖める。机の上から見える景色と井戸の底を比べると、雲泥の差があった。だからほんの少しためらうのである。  ひき子と部屋を見渡し、今日はどこを探すか指をさしながら検討する。視界のはしに映るちさはまるで蝶々を目で追うように、ぼんやりとなにかに集中していた。  今日は玄関といわれる場所を探索することに決定し、ちさを呼ぶ。 「ちさいくよー」 「あいあい、さー」 “チュウ”  ちさの掛け声に合わせて聴き慣れぬ音がした。たまらず、頭を傾げて音がした方向を見やると、ちさの後ろに見覚えのあるネズミがいた。ひき子と出会いたてのときに襲ってきたあのネズミだ。  すっかりネズミの存在を忘れていて、完全に不意打ちを食らった私たちは顎が外れるほど驚愕したいた。体はかっちりと固まり、一瞬時間が止まったのかと錯覚してしまった。 “ぶぅぅぅん!” 「「え??」」  そのときだった。なにかが恐ろしい速さで、目の前を駆け抜けていった。ほとんど姿を消したようにみえたそれはちさだった。あたりを見渡しても姿はなく、彼女は霧のように消えてしまった。  机の上に取り残されたネズミと目が合った。しばしの時間が過ぎて、ようやくお互い意識が戻った。ネズミは大口を開けて、生々しい舌を露出して突進してきた。 「「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」  体は我先と床を目指す。布を手足に縛りつける暇などなく、それどころか布を掴み損ねて戻ろうとしたとき、ひき子が突進してきてふたり塊となって床に落ちていった。  毛の生えた布とはいえど、やはりあの高さから落ちると痛いのは当然だった。腰をさすり、思い出したように慌てて起き上がる。油断している場合ではなかった。後ろを確認する余裕もなく、がむしゃらに走った。  とりあえず避難する場所が欲しいと焦る目を左右に揺らす。ここもだめあそこもだめ、あっちはいいけど通り過ぎてしまった。だんだん足音が近くなってきて、心臓がドクンと鼓動する。 「追いつかれるわよ!」 「えぇと……あ! ひき子! あそこ!!」  指し示したのは以前登ったことのある、板が何枚も立てられているところだ。彼女の返事を待たずに、足は向きを変える。ゆっくり止まっている暇もなく、走った勢いのまま一番右の板に突撃した。  バタバタと音をたてる板たち。呆気に取られているひき子の手を引いて、二段目に避難する。いくらネズミでもそう簡単に登ってこないだろうと、たかをくくって休んでいた。 “ヂュウ!”  鼻の先端が現れた。登ってこようと必死に爪を引っ掛けている音が響き渡った。ここに避難する以外の妙案を考えておらず、むしろ追い詰められてしまった。まさに袋のネズミ、そう言わざるを得なかった。  諦めかけたそのとき、ひき子が歯を食いしばった。すかさず奥から細長い金属の棒を両腕で抱え、えいえいっとネズミに向かって突き始めた。体格の大きいネズミも負けじと頭を振るが、一発、鼻先に命中した。  ネズミは尻尾をまいて、部屋の隅に消えていった。そのことを確認し、安全が約束されると、体から力という力が抜けてしまった。ふたりともへたれて座り込み、肩を支え合った。 「ひき子すごいね。ネズミを追い払っちゃうなんて」 「正直自分でもびっくりしてるわ。このプラモ用のドライバーがなければ危なかったかもね」  先端が十字になっており、名前も聞いたことがなく、なにに使うのかとても気になった。しかし、いまはそんな体力など残っておらず、妄想すらできなかった。  日常が戻るにつれて、においも鼻に入ってくる。周りに置いてあるものが視野に入ってようやく、ここは異様なにおいが漂う場所なんだと思い出した。ひき子に目をやり、もしかしたらと、この場所について聞いてみた。 「たぶん、プラモデル作るための道具が置いてあるのね。あープラモデルっていうのは……平たく言って、固いお人形よ。特に男の子がはまりやすいんだってさ」 「へー男の子でも人形……あ。あぁ……あれってまさか……」  頭に一瞬光がよぎり、画面が切り替わった。ゆっくりと時間が流れるなか、上から下へ落ちていくあの角おじさんの姿が鮮明に思い出される。  首を傾げるひき子に事情を説明すると、高らかに笑い出した。目に涙を浮かべて「あたしなら泣くなぁ」とげらげらしている。ひとしきり笑い切ると、ひき子がこちらに目を向けた。 「それにしても、よくこんなところ見つけたわね」 「まえね、ひき子とケンカしたあと、ひとりで探してたら見つかったんだ。特に役に立ちそうなのはなかった気がする」  そっかぁっと残念がるひき子は目線を部屋の奥に向けて、もうひとりの友人を探した。急にいなくなって、どっちに行ったかまったくわからない。間違い探しをするように、ふたりでじーっと眺めていると、ある異変を感じ取った。  テレビの縁、ほんの少し盛り上がった部分があった。目を凝らしてみてみると、ちさ本人であった。 「あーんなところにいるわ」 「走って登ったのかな」 「もうちさに壁走らせよっか。なんかできそうな気がする」  大きく手を降り、ちさを呼ぶ。声が届いていないのか、ネズミがいないと信じていないのか、彼女が動き出すのに時差が生じた。  ちさがテレビからずるずる降りるのを確認し、私たちも降りることにした。ここはやはりにおいがきつく、鼻の奥に残るような感覚だった。縁に手をかけて腰を下ろしぶら下がろうと後ろを振り向いたとき、ひき子の姿が目に入った。一点を見つめて、足を止めている。 「どうしたの?」 「いや、あれって……」  彼女が指をさしたのはべとべとする布だった。またひっついて痛い思いをしたくなく、ますます速く降りたいと体が反応する。私のことなどつゆしらず、ひき子は真っ直ぐその布に向かっていった。  しぶしぶ私もついていき、若干彼女の背中に隠れるように、早く立ち去ろうと懇願するように、ひき子の上着を握った。 「それ危ないよ。髪の毛にひっついたら痛いよ。ねぇ早く行こう」 「じゃあやっぱりガムテープか。ガムテープ……それだ!」  頭の上に電球を灯した彼女は私と目を合わせたと思えば、すたこらとガムテープに駆け寄った。後ろに回り込み、重たそうな引きずり音を少し鳴らす。  ひとりでは厳しいようで、私も手伝うことになった。周りの邪魔なものをどけ、ふたりで押していった。そのまま上から落とすと、鈍い音が響いた。 「ねぇこれをどうするの?」 「まあまあ見てなさいって」  詳しくは教えてもらえず、ひとまず私たちも降りる。地面に寝ているガムテープを起こして、転がしながら中央の机を目指した。  机の脚に身を隠しているちさを発見し、無事でいたことに胸をおろす。三人が合流して、ガムテープを倒すやいなや、ひき子が作業に取り掛かった。ガムテープを剥がし、下らへんを足で押さえて思いっきり引っ張ると、短く切り取ることができた。  さらにそれを細かくちぎって、丸めて手足に装着する。完成した姿を子どものような笑顔で見せてきた。 「名付けて、スパイダー作戦!」  決めポーズをとり、ガムテープを巻いている手足を机の脚にくっつけた。続けて、右手と左手を高い位置にくっつけて、足を交互に上へ移動させる。それを繰り返していると、ひき子の体はしっかりと登っていた。しばし見守り、固唾をのんでいると、とうとう机の上に到達した。  歓喜が響き渡った。長い間悩み思考して試行してきた問題がついに解決した。渇ききった喉に水が流されるような感覚が全身を興奮させる。ひき子とは手と目で、ちさとは抱き合ってよろこびを分かち合った。  その後、ひき子はむささび布をで降りてきた。しかし、登頂に成功したにもかかわらず、なぜかかんばしくない表情をしていた。 「どうしたの?」 「いや、登れたには登れたんだけど、あたしの握力があったから登れたというか。それにあの壁を登るとなるともう少し改良しないといけなそう」  問題という壁を超え、また問題にぶち当たる。しかし、今回はいままでとは違い、目的がよりはっきりしている。なによりも、退屈しなくてすみそうだと、本音がざわざわと騒ぎ立てていた。 「よし! じゃあ次の目標は、スパイダー作戦ばーじょんにーてんぜろ!」 「あーなんか、長引きそうな作戦名ね」 「ちさも、あぷで」  手のひらを下にして、ふたりの前に差し出す。それを察したひき子は同様に腕を伸ばして手を重ねた。見様見真似で手を重ねたちさは不思議そうにぼーっと見つめていた。  ふたり分の手の温もりが伝わってくる。一度やってみたいと思っていたのが現実になり、うずうずしている。 「頑張るぞー」 「「「おー!!」」」  三人の声はひとつの塊になり、部屋の隅まで行き渡った。この世界に宣戦布告するかのように、重ねた手を天高くあげた。    それから私たちは来る日も来る日も、ガムテープの改良に明け暮れた。 「あーまた失敗。これならまえのほうがよかったよね」  ガムテープを加工して手袋にしてみたり、球体にして転がしてみたり、全身をぐるぐるに巻きつけたり。三人全員が登れるように試行錯誤した。  いま問題になっているのはガムテープの粘着力だった。登るためには何度もつけたり剥がしたりを繰り返す必要があった。次第に粘着力が失われ、ほとんどただの布になってしまう。  つけ剥がしの回数を減らす方法、ガムテープを補充する方法、使い捨てる方法など、思いついた案は数知れなかった。しかしそのどれもが壁にぶち当たり、あっけなくお蔵入りとなった。 「せめてひき子だけでも上に行けたら、紐をおろしてみんな登れるのにね」 「紐担ぎながらってなると、なおさらガムテの強度もっとほしいわねぇ」  ガムテープの残骸をかたわらに、腕を組んで喉を鳴らす。そろそろ万策がつき、ガムテープの残量も気になり始めたころだった。このまま答えが出ないか、はたまたガムテープが底をつくか。ふたつにひとつだった。  ひき子は小さな台に登り、ガムテープの厚みを確認した。彼女の反応から鑑みるに、まだ余裕はありそうだった。 「ねぇひき子」 「ん?」 「いまさらなんだけど、ガムテープって元々なにに使うものなの?」  妙案が出ない代わりに、暇つぶしがてら気になっていたことを聞いた。ひき子は無言でガムテープの切れ端を持ち出すと、私の手首に巻き始めた。がっちり固められ、自分の力では解くことはできなかった。また、至極当然のように足首にも巻き、おまけにもうひとつ、ガムテープで口を塞がれた。  えりをぐっと引っ張ったひき子は不敵な笑みをこぼした。顔に影を作り、目をぎらりと輝かせている。 「こいつの命が欲しければ、一億円用意しろ!」  特定のひとりというより、周囲に呼びかけるように高らかに叫んだ。なにかを理解したちさがむくっと立ち上がり、上着を整え、いつも見せない手をあらわにした。右手の人差し指と親指以外を折りたたみ、それに添えるように左手を胸の高さにあげた。  心なしか彼女の眉毛は太くなっているように見えた。いつもの泣きっ面ははずして、キリッとしている。 「人質を、放せ」 「ふん、身代金が先よ」  ようやくここで理解した。私だけが現状を理解していないことを。彼女らが数回言葉を交わしてやっと、これがおままごとなんだと気がついた。内容はさっぱりわからないが、自分の命が危ぶまれているのは確かなようだ。  ガムテープのせいで身動きが取れず、声も出せない。ふたりは楽しんでいるのに、私だけほとんど小道具だった。 「バババババ!」 「くそっ! 弾切れか」  そろそろ疎外感に押しつぶされそうなころだった。ふたりはいま、ガムテープを丸めたゴミを投げて遊んでいる。窮屈な姿勢で焦らされて、服の中は汗をかいていた。  ひき子が地面に倒れて勝敗がけっしたらしい。おままごとも終わり、ころころ笑うふたり、それに反して真顔の私。思い出したようにひき子がやってきて、ようやくガムテープを外してくれた。 「ひどいよぉ仲間はずれなんて……」 「ごめんごめん。つい楽しくて。ガムテープ、全然外れなかったでしょ。だから箱を閉じたり、ものをはっつけたりするのに使うのよ」  ふーんと不貞腐れてみると、ひき子は私を抱きしめて頭を撫でてきた。  ものを壁に貼る。その言葉が頭に残った。なにかもう少しで出てきそうな歯がゆい気持ちになり、周囲の声を消して自分の世界に入った。おそらくひき子が話しかけている。申し訳ないと思いつつ、答えを出すほうを優先した。 ——もの、登る、貼る、ガムテープ……。  頭の中で絡まる紐を丁寧に解いていく。その奥に必ず赤い紐があると信じて。 「出っ張り……そうだ! 井戸の出っ張りだよ!」 「びっくりしたぁ。急に黙ったと思えば、今度は叫ぶし」  一歩退くひき子の手を取り、忘れないうちに言葉にする。 「私の井戸ね、登るために出っ張りがあったの。だから出っ張りをはっつけながら登っていけばいいんじゃないかな? そうすれば粘着力の問題も解決すると思うの」  ひき子とちさが斜め上を向いていた。しばし思考に集中して、口を半開きにしている。自分は妙案だと思うが、ふたりがどう思うかわからない。心臓をどくどくさせながら、彼女らの言葉を待った。  行けそうねと最初に返答したのはひき子だった。続けてちさも頭を縦に振る。三人の意見が一致し、早速試すことにした。地面に落ちているガムテープの切れ端を丸めて棒状にし、上から覆うように新しいガムテープで壁に貼り付けた。  ひき子が手をかけて強度を確かめる。足が地面から離れて、ガムテープだけで体を支えていた。数秒経っても剥がれることなく、その安定性は証明された。 「結構いい感じだよね。これってまさか……」 「ええ、この案でいくわよ。やるじゃん貞子」  長きに渡って難題と向き合っていた苦労が、いまこの瞬間ようやく報われた気分だった。ちさとよろこびの抱擁をして、ひょこひょこと飛び跳ねる。胸のあたりがぎゅーっと苦しくなったが、嫌なものじゃなかった。むしろ体がよじれる多幸と達成を感じた。  まるで井戸に帰れたかのような終演の雰囲気が広がっていた。 「喜びは家まで取っておきなさいよ。取手が持ちにくいからそこだけ改良が必要ね。あと紐とか、ほかに必要なものも用意しないと」 「ちさ、考え、ある」  止まっていた時計が加速し、夢物語がついに現実になる。  いったんごみを一箇所にまとめて、ちさを筆頭に最終工程に着工する。着々と進む作業に比例してわくわくが止まらなかった。この三人ならなんでもできると、なにをしても楽しめると、心から思わされた。  だからだろうか、一点の引っ掛かりが静かにざわついているのは。 「じゃあ電気消すわよー」  ひき子が豆電球を回転させて光も眠りにつかせる。すでにカプセルに入っていた私は目をぱっちり開けたままぼんやりと天井を見ていた。  試しに目をつぶってみる。体勢を変えてみる。それでも眠気が一切こず、時間だけがたらたらと無駄に流れていった。 「眠れない?」  そう声が聞こえてきたのはひき子のカプセルからだった。うんと返事を返すと、カプセルが外れる音がした。 “コンコン”  カプセルを叩くひき子はほんの少し微笑んで見えた。彼女にならって、手探りで穴を探し、カプセルを取り外した。外に出て背伸びをする。ひき子はひそひそ声で「ちょっと歩こう」と誘ってきた。ちさはぐっすり寝ているようで、起こさないように静かに歩いていった。  人間も寝ている部屋はやけに音がなく、耳が敏感になっていた。青黒い世界を歩くひき子の背中を眺め、ついていく。まるで一枚の絵のように、彼女は夜に溶け込んでいた。 「いよいよ明日だね。ようやく貞子の世界に行けるわね」  「そ、そうだね……」  夜に声色を合わせて、花を愛でるように空気を振るわせる。普段の話し声とは違い、新たな一面があらわになった感覚がした。  数歩後ろを歩く私の手を取り、机の上を指さした。まるで私が眠れないことを知っていたかのように、まるでもとから私を連れ出すのが目的だったように、彼女の手には二枚のむささび布が握られていた。  慣れた手つきでテレビに登り、なにも恐怖心を感じず、机の上へ舞い降りる。夜に来たのは初めてで、普段とは違う景色と空気感に、ほんの少し心が浮つく。  むささび布を畳み、ひき子は机の縁を指さした。そこに腰掛けると、足がちゅうぶらりになり、微量の浮遊を感じた。ひき子も、履いていた靴をかたわらに置き、靴下も脱いで足の指を動かしていた。 「足さむー。てかすーすーする」 「私の足冷たいよ。ほれ」 「つめた、ちょっとやめてよー」  小川のような時間が流れた。言葉を紡ぎ、会話を絡める。睡眠まえのぼんやりとした心地よさが常にまとわりついていた。  今日のひき子はよく笑っている。心なしか体の距離も近かった。夜の闇に身を置いても輪郭がはっきりするほど、彼女の呼吸が聞こえるほど身を寄り添わせている。気がつけば肩と肩が優しく触れ合っていた。  いつもとは違う雰囲気のせいで、普段は気になっても聞けないことを聞きたくなる。相手の敷地に土足で踏み込むのはやはりはばかり、言葉をつまらせていると、どうしたのと鈴の音が響いた。 「あ、あのさ。ひき子は……家に帰りたい?」 「どうしたのよ急に。まえも言ったけど家出してきたのよ。いまさらあんな家に帰りたくないわ」 「なにかあったの? あ、いや、話したくなかったら別に……」  ひき子は目線を落として、足を前後にぶらぶら揺らし始めた。話すことを嫌がっているというより、慎重に言葉を選んでいるようだった。  独り言をぶつぶつつぶやき、ため息をついた。ひとりの世界だったのが、ふたりの世界に広がり、大きな独り言のように言葉を床に向かって落とす。 「あたしの家族はね——」 『あ、ぽむぴょんチャンネル配信してる。ちょうどいいし、作業しながら観よっと』  暗い部屋片隅で青い光を浴びているひとりの少女。今日もこの部屋で起きて、一歩も外に出ることなく一日が終わる。ここの部屋のカーテンが開かれたのはいつのことだろうか。 『ひき子、あんたいい加減にしなさいよ』  ドアの向こうから濁った声が聞こえる。いまいましい親の肉声だ。 『長女のあんたがしっかりひき子をしないとだめでしょ。毎日毎日部屋に引きこもってないで、ちょっとは外に出て、子どもを引きずってきなさい!』 『うっさいわね。なんでやらないといけないのよ』 『あんたがひき子だからでしょ! 娘が落ちこぼれなんて母さん悲しいわ。だいたい……』  言葉を遮るように耳にヘッドホンを装着した。最近新しく買った周囲の音が聞こえなくなる優れもの。かすかに聞こえていた母の声もボタンひとつで綺麗に消え去る。さらに音量も上げて、自分の世界に入り浸った。 “保育士試験対策問題集”  机の上に積み立てられた本から使いかけのノートを引っ張り出す。なりたい私になる。その決意が五冊目のノートに表れていた。ひき子になるよりも、自分らしいと感じていた。  ある日、お風呂に入り終わって部屋へ戻ると、机の上がすっからかんになっていた。本、ノート、パソコン、スマホなど、あたしを構成するものたちが消え去っていた。 『なんで……どこいったの?』 『全部捨てたわよ』  入り口に立っていたのは母だった。 『保育士だなんて、馬鹿も大概にしなさい。やっぱりネットは悪影響を及ぼすのね。悪いもの全部綺麗さっぱりなくなったんだから、ひき子として励みなさいよ。わかった? わかったなら返事をなさいひき子!』  頭が真っ白になり、到底あたしとは思えない金切り声をあげる。喉をばちばちとすり減らし、実の親を突き飛ばした。  まるで自分が消えてしまったようだった。涙の滝を流しながら家を出ていった。もう二度と、決して戻らないと心に誓って—— 「あたしね、小さい子が好きなんだ。長女ってこともあってお世話するのは好きなの。だから……だから嫌だったのよ。子どもを引きずり回して殺すひき子が、死ぬほど嫌だった。出来損ないなのよ、あたしは」  私の頬を熱いものが流れていく。それに気がついたのは足に雫が跳ねてからだった。  ひき子の顔はとても清々しく、すべてを悟り諦めた顔だった。涙も枯れてしまい、言の葉を淡々と連ねる。その姿が余計に心を締めつけた。膝を抱えて、机の縁にちょこんと座る。いつもは頼もしい彼女も、いまは私よりも小さく見えた。 「ごめんね、こんなしんきくさい話……」 「好きだよ」  ひき子がしゃべっているのを遮断した。困惑して中途半端に持ち上がった口角で笑みを浮かべるひき子に対して、体ごと真っ直ぐ向けた。私が知っているひき子を伝えるために、言葉を選ぶ。 「いつも頼りになるひき子が好きだよ。たまにキャラ崩壊するときもあるけど、それも好き。もしひき子じゃなかったら、重いもの持てないし、アイディアも出てこなかったと思うの」  頭から湧き出る順に口を動かす。半ば思考が追いついていなく、言葉が先走っていた。でもそれに嘘はひとつもない。正真正銘の私の真意だった。  か弱く目を潤わせて見つめてくるひき子が自分の妹のように思えた。心を落ち着かせるつもりで、頭を優しく撫でる。 「私にとってひき子は、家族も同然だよ」  ひき子の髪がふわりとたなびいた。 「なにそれ、貞子のくせに」  ひと雫落として、笑いながら文句を垂れる。ひき子はゆっくり深呼吸すると口元をぎざぎざにする。こつんと頭を肩に乗せて、「ありがとう」と呟く。いまが夜で本当によかった。光がさせば、ほのかに赤いにやけた顔がばれてしまうから。  また雑談を始めてしばらく経ち、すっと背伸びをしながらひき子が立ち上がった。 「そろそろ戻ろうかな。なんだかぐっすり寝れそうな気がするわ」 「私はもうちょっと涼んでようかな」 「そう、あんまり遅くなるんじゃないわよ」  うんと返事をすると、ひき子は手を振ってからむささび布で地面に降りた。広い部屋にひとりぼっちになり、静けさがぐっと増した。井戸の底とは違い、自分の音も響きやしない。耳の奥が膨張し、些細な音を拾おうと心がけている。  この部屋とももうおさらばだ。そう思うと胸がそわそわし始める。縦に長い箱、ティッシュの箱、透明な容器。それ以外にもたくさんの光景が思い出とともに思い出される。だらんと寝そべって、手を天井に向けて伸ばした。 「お師匠さま……」  そのときがくれば、そのときの自分がなんとかしてくれる。いまは先をあれこれ考えないで、浸れるものに浸っていたかった。ゆっくりまぶたを閉じ、裏に見える景色を眺めた。ここで出会った友達とともに。
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