【第九回 雨のち晴れ】

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【第九回 雨のち晴れ】

 雫が激しく地面に打ち付けられる轟音が途切れることなく響いていた。夜は明けたというのに、部屋は真っ暗だった。ときおり眩しい閃光が放たれ、数秒遅れて地面が割れるような音がやってくる。  ちさはカプセルから出てこようとせず、私とひき子は青暗い部屋を眺めていた。 「最悪な天気ね。ま、私たちには関係ないけど」 「こんな雨の中、人間はどこ行ってるんだろうね」 「どうでもいいわ。人間が帰ってくるまえに、この部屋からおさらばしないと。貞子、ちさを連れ出してきてちょうだい」  拠点に戻り、ちさのカプセルを外から開けた。中で縮こまり、目に涙を浮かべて、耳を塞いでいた。いくら問いかけても聞こえてないらしく、体を小刻みに震えさせていた。  頭を撫でて、目を無理やり合わせる。彼女が不安がらないように、笑顔を忘れなかった。彼女を引き連れて、ひき子のもとへゆく。今日のために準備したものが一箇所にまとめられている。ひき子はせわしなく動き、ものをめくったりどかしたり、なにか探しているようだった。私たちに気づいた彼女の顔は青ざめていた。 「ガムテープが見当たらないの……!」  冗談を言っているとは思えず、周りを確認してみると、確かにガムテープがなかった。あんな大きなものを見間違えるわけもなく、そう簡単に紛失するものでもなかった。  ガムテープがなければ、ちさが考えてくれた出っ張りの固定ができない。代用品を探す時間もなく、さっきまでの意気込みが虚しく散ってしまった。ひき子は不貞腐れて大きなため息をつき、その場に倒れた。今日はこれで終わりかと思われたそのとき、ちさが服を引っ張ってきた。 「ちさ、予備、場所、わかる」 「え!? まじで?」 「うん、ちさ、持ってくる。準備、ふたり、やってて」 「……」  そう言い残すと、ちさはすたこら歩いていった。ほっと胸を撫で下ろしたひき子とふたりで作戦の準備をすることにした。紐、縫い針、むささび布、出っ張りの数を確認して、装着できるものはいま身につけた。 「人間が拾っていっちゃたのねきっと。まじで焦るわぁ」  ちょうどそのとき、ちさが色違いのガムテープを持ってきた。白色のガムテープをちぎって、強度に問題がないことを確認する。むしろこっちのほうがちぎりにくいが粘着力が高い気がした。  ちさの身支度を終え、ものをすべて壁の下に持っていく。びかっと光で露わになった机は冷徹に私たちを見下ろしていた。三人同時に片唾をのみこむ。 「怯えてもしょうがない。ふたりともいくわよ。えーっと……」 「スパイダー作戦ばーじょんにじゅういってんさん!!」 「さん!」 「相変わらず楽しそうねぇあんたたち……」  あのときと同じように手を重ねて、三人の気持ちをひとつに合わせた。  ふっと息をはいて気持ちを入れ替える。ガムテープを二本床に置き、ガムテープを丸めてできた棒を垂直に交わるように置く。棒を包み込むようにガムテープを貼り合わせて、余白がくっつかないように気をつけて運んだ。  壁に貼りつけて、爪でしっかりと擦り密着させた。こうすることで棒と壁に空間ができ、手のひらでしっかりと掴めるのだ。さながら取手のような形だ。これを三人で手分けして、少しずつ貼りながら、上へ登っていく。  さいさきはとても順調だった。ちさが取手を作り、私とひき子がかわりばんこに貼っては降りてを繰り返す。床が近いときはそのまま飛び降りていたが、次第に高さが出てくる。ここで満をじしてむささび布が登場した。今回の作戦で一番使い慣れている道具かもしれない。  休まず動き続けてかなりの時間が過ぎていった。いったん下に降りて状況を共有することにした。 「いまどれくらい?」 「半分までは行ったわね。この調子だとあと一時間くらいで登れちゃうんじゃない?」  余裕をかましていた私たちを奈落に落としたのはちさ悲鳴だった。ビクッと体が反応し、すかさず彼女の姿を探す。私たちから少し離れた荷物を置いてある場所に黒髪が飛び跳ねていた。  駆け寄って背中に手を当てると、ちさは振り返って涙を流していた。感情でしゃべっているせいでまったく聞き取れず、追い打ちをかけるように雷が落ちた。このままではらちがあかず、ひとまずガムテープの影に隠れて、全身で彼女を抱きしめた。頭を撫でていると、落ち着きを取り戻したようで、今度こそ聞いてみた。 「なにがあったの?」 「棒、もうない」 「「え!?」」  耳を疑ったが、それは確かだった。荷物置きの場所に棒らしきものはなかった。試しに拠点を確認するが、そんなものはなかった。明らかにおかしかった。壁にくっつけられた棒と、準備をした棒の数が合わなかった。正確な数までは把握していないが、少なくとも倍以上はないと記憶を疑うことになる。  異常事態に惑わされている間に、時間は無情に過ぎていった。早く登らねば人間が帰ってきてしまう。それを理解し、一瞬だけ、諦めが頭をかすめた。 「と、とりあえず、ガムテープはまだあるし、手分けするわよ。ちさが棒を作って、私たちは取手を作ってそれをはっつけにいく。いいわね」 「あいあい、さー」 「……」  気を取り直して作業を再開した。ちさは一心不乱に棒を作り始めた。作業工程が増えたことにより、登る高さも上がったことも相まって、圧倒的に時間がかかった。  登って貼り付ける、登って貼り付ける。非力な腕は悲鳴をあげていた。休む回数が多くなり、ひき子の負担も増えていった。しかしいまさらやめることなんてできなかった。そんなこと、口が裂けても言えない。 「貞子、大丈夫?」 「大丈夫だよ。今日中に完成させないといけないからね。そう、頑張るのよ貞子! お師匠さまが呼んでるんだから!」  取手を掴み、歯を食いしばりながら現状一番上まで行く。取手を掴み過ぎて皮膚が剥がれ、ヒリヒリ痛かった。力を振り絞ってガムテープを貼り付けようと片手を離したそのとき……。 「え……」 「貞子!!」  取手が剥がれた。  いままでつけてきた取手がすべて繋がっており、上からぺりぺりと剥がれていった。まるでムカデの海老反りだった。頭の部分にいる私は背中から真っ逆さまに落ちていった。  世界がゆっくり進み、耳に音が入ってこなかった。だれかが叫んでいる。そう直感した。頭の中で私の名前を呼んでいる。聞き覚えはあるのにだれだか見当がつかなかった。ただひたすらに、心が暖かくなった。 “貞子……” ——お母さん……? 「貞子! むささび!!」  はっと目が覚めて、お腹が下になるように体をひるがえした。手足に結び付けられた布は空気を内に溜めて大きく膨らんだ。失速するのとほぼ同時に地面につき、大惨事を免れた。  軽く放心状態の私にふたりは駆け寄ってくる。無事を伝え、手を借りて立ち上がった。壁のほうを見やると、こっちは大惨事だった。ムカデのように連なった取手の約半分が剥がれて地面と接している。ここ数時間の努力が、こうも簡単に踏み潰された。  心は半分諦めていた。もしかしたらもっとかもしれない。雨の音が本音を隠してくれそうで、少しくらい出してもいいんでないかと、悪魔がささやく。弱音を吐いたら最後、二度と立ち直れなくなる。二度と帰れなくなる。  ちさとひき子が諦めずに取手の修復を試みるが、上半分はもう粘着力がなくなり、くっつけてもすぐ剥がれてしまった。ガムテープで補強しても、どこかしら剥がれてしまう。圧倒的に作戦失敗だった。 「私……もう……」 「しょうがないわねまったく。泣き虫はちさひとりでいいんですけど」  顔を上げると、上着のポケットに手を突っ込んだひき子がいた。にやりと口角をあげ、この絶望的な場面には相応しくない澄まし顔をしている。 「あたしが上まで登って紐で引っ張り上げるわ。名付けて、スパイダー作戦ばーじょんにじゅうによ!」 「あぷで、あぷで」  ちさも横で下に垂れた袖を振っている。なぜふたりが笑顔なのか理解ができなかった。まったく関係のない他人のために、ここまでできるだろうか。  ひき子はガムテープの残量を確認して、ちさに指示を出していた。ちぎって両端をくっつけて、粘着する部分が外側にくるように輪っかにした。それを大量に作って背中にくっつけ始めた。 「ひき子、それ大事な上着じゃないの……?」 「友達が困っているんだもん。問題ないわ」  きっぱり言い放ち、むしろ誇らしげに見せてきた。両手に装着する輪っかを作り、ガムテープは底をつきた。これが本当に最後の挑戦だった。  ふたりは壁際に行き、準備を進める。両手に持つガムテープを肘につけて、紐の先端を歯でくわえた。取手があるところまではそれを利用して登っていき、途切れたところから作戦が始まった。  作戦といっても、それは一番最初にやった方法と同じだった。ひとつ違うのは、足にガムテープはついておらず、手だけで体を支えていることだった。右と左を交互に剥がしてつけて、剥がしてつけてを繰り返す。靴を滑り止めのように使用し、登っていった。  ちさは紐が絡まないように、ひき子の動きに合わせて紐を送っている。そのとき、上からガムテープのくずが落ちてきた。この作戦の欠点は粘着力が持続しないこと。それでさっきの行動に合点がいった。背中に貼り付けた予備を使って、使い捨てながら登る。これが作戦の真意らしい。  ちゃんと考えられていたことに感心していると、背筋が凍った。 「待って……ひき子、むささび布つけてない!! 止めないと!」 「貞子、待って」  首がこりそうなほど上を向いているちさが、目線はそのままに言葉だけ投げてきた。 「ひき子、それ、知ってる」 「だったらなんで……」 「友達、困る、だから、助ける」  友達、さっきひき子も同じことを言っていた。この世界に来て初めて知った言葉。一緒にいて楽しい人と、私の頭の中では翻訳される。しかし、彼女らの言動はこの言葉では表せていない。私だけ、本当の意味でまだ友達を知らないのだろうか。  手を伸ばし、登っていく。もうどれほどの時間がたっただろうか。ガムテープがくっつかず滑り落ち、登っては呼吸を整えるためにとどまる。見ていて痛痛しかった。やめてほしいなんて無責任な言葉も言えず、ただただふたりをはたから傍観するだけだった。  そしてついに、そのときがきた。机の上にたどり着いたひき子が紐の先端を手に持ち、両手を上げて歓喜を表していた。ちさもひょこひょこ飛び跳ねている。なのになぜ、私は涙を流しているのだろうか。悲しみとは違い、胸から溢れる暖かいものが目頭を熱くする。 「やったね、貞子」 「うん……!」  紐を固定した合図が送られ、私とちさはひとりずつ登っていく。頂上にたどり着くと、疲れ切って獣のようなうめきをあげているひき子がいた。ありがとう、お疲れさま。一応伝えたが、まだ息が上がって返答はできないでいた。  ついにやってきた机の上。心の高鳴りに気がつくのはもう少し後のことだった。ひき子の回復がすみ、あらためて机の上を傍観する。建物が倒壊したような荒れようで、ものが積み重なったりなだれ崩れていたり、とても部屋の一部とは思えなかった。さまざまな思いが交差するなか、結局ひとことでいうと……。 「「「汚い」」」  私たちの拠点もものは増えたが、ちゃんと整理整頓されている。まして作業する場所ならなおさら綺麗にしておくのが常識なんじゃないかと、無知の女が思ってしまった。  完全装備のちさ、なにもつけてない普通のふたり。軽く体を伸ばして深呼吸をする。 「ふたりとも、気をつけなさいよ」 「ひき子もね」  外は依然として雨が降っていた。光がないせいで、どこを通っていいかわからない。しかし、登るのに時間がかったせいで、いつ人間が帰ってきてもおかしくなかった。そうなってしまえば、紐は撤去され、使わなくなったスマートウォッチは処分されるかもしれない。  心を入れ替え、決心する。先頭を歩くのは私だ。ここまで導いてくれたふたりを、今度は私が導く番だ。  乱雑に山積みにされた教科書とよばれるものを登ろうとするが、足場が悪く、仕方なく迂回することにした。壁に張り付くように、教科書を背中にして細い道を渡っていく。一歩踏み外せば机から真っ逆さまだ。 「道が途切れちゃった」 「最悪ね。この上を行くしかなさそうね」  教科書の段差を利用して登っていく。教科書の両面は氷のようにツルツルで、いくえに重なる教科書やものが大きな溝と隙間を生む。もしそこに落ちたら、二度と助からないだろう。  慎重に、お互いの姿が見えるように横並びになって歩く。教科書の山もあと少しで乗り越えられる。 「たぶんあそこらへんにスマートウォッチがあるはずよ。充電コードもおそらく」 「あれかなぁ。ねぇ、あの箱の近くの……」 “ズズズズ”  不穏な音が鳴り響く。なにか来るかと身構えたとたん音はやんだ。気のせいだったらしいと、安堵のため息をついた瞬間、地面が急に滑り出した。微量に動き始めたそれは、徐々に加速していき、私たちもろとも机から引きずり下ろそうとしていた。  体が危機を察知し、動いていないところへ避難した。しかし、ひとり逃げ遅れた人がいた。 「ひき子!!」  あとさき考えず、飛び出した。手を伸ばしていた彼女を捕まえて一緒に流されていく。と、覚悟していたが、私たちの体は流れる教科書に巻き込まれず、教科書数冊だけが暗闇に吸い込まれていった。  ちさがとっさに私の足を掴んでくれたのだ。動いていない教科書に針を突き立てて、ぎりぎりの距離で私たちを繋ぎ止めてくれた。 「ちさすごい……!」 「えっへん」  せっかくのドヤ顔が布で半分覆われている。また教科書がずり滑りそうで、四つん這いになりながら、そそくさと進んでいった。  机の中央は比較的ものが少なく、無理やりどけられてできた不自然な空間があった。その片隅に例のものはあった。スマートウォッチだ。試しに画面に触れてみるが、やはり入れない。電源をつけてみようとするが、それも無意味だった。やはり充電が必要だった。  充電の差し込み口を三人で共有する。暗くても大まかな形だけはわかった。それと同じものを探し出す。私の帰路もいよいよ大詰めだ。 「ここからは手分けして探しましょ。見つかったらすぐに知らせること。いい? もうあまり時間がない。ラスト頑張るわよ」  蜘蛛の子のようにばらばらに散らばった。ちさは箱が密集しているところ、ひき子はスマートウォッチ周辺を、私は壁際を探した。  まず配線らしきものが見当たらなかった。こんなにものがあるのに、細々としたものが少なかった。どれもこれも大きな箱やら本やらで、むしろ見つけやすいいのではと首を傾げる。早く見つけなければならないのに、この暗さでは目も信用ならない。 「こんなことなら夜に出歩いて練習しておけばよかった。ちさ、そっちは見たかった?」 「鈴、ゲット」  首からぶら下げてご満悦な表情をし、さらに奥のほうを探すために箱の森を潜っていった。おそらくだが、そっちにはない気がした。  ちさの場所から離れてものをかき分けていくと、配線が見つかった。はっとして声を出さないように口元を手で塞いだ。本当に配線なのか、紐じゃないか確認するために触ってみると、ちゃんと配線だと確信した。  数本、ぐるぐる巻かれてそのまま乱雑に置かれた形跡があり、絡まっていた。ひとまず配線の先端を確かめて、目的のものを探る。白、黒、短い、長い。なかなか同じ形のがなく、最後にたぶん違うであろう、配線の中で一番短いやつを手に取った。するするっと先端を手繰り寄せて、観察する。いったんスマートウォッチを眺めてもう一回見やる。 「これだぁぁぁぁぁ!」  あっとまたやってしまったと、口元を押さえる。興奮も一緒に抑えて冷静になる。ちょうど壁際で見つかってよかったと胸を撫で下ろす。机と壁の間に私の身長ほどの隙間があり……。  その配線を、捨てた。  手をぱんぱんと叩き、ほこりを払う。しっかりと配線が落ちているのを確認して、もとの位置に戻ろうとした。 「ちょっとあんた、いまなに捨てたのよ」  離れたところに、ひき子が腕組みをして私を睨んでいた。普段悪態をつくときの声とは違い、低く地を這いずり回るような声だった。背中はぞくっと震え、絶妙に彼女の顔が見えない程度に目を伏せた。  異変に気がついたちさが鈴の音を鳴らしながら歩き、ひき子の隣に立った。スマートウォッチを中間に置き、二対一で対立した。なにもしゃべらない私に痺れを切らして、ひき子が怒号をあげる。 「なに捨てたかって聞いてんのよ!! あんたのためにこっちは必死になっていたのに、それを捨てるですって!? 自分がなにしてるかわかってんの??」 「……」  雨は激しさを増した。この部屋がごとごと揺れているように思えるほど音がひどかった。雷も頻繁に落ち、その度にちさはひき子の背中に隠れた。  昨日まではあんなに静寂だったのに、いまは乱れに乱れ、荒れに荒れている。 「なんかしゃべったらどう? もしかして、今日ガムテープがなくなったり、棒が消えたり、ネズミが襲ってきたのも、全部あんたのせいなの?」 「ネズミは違う……」  暖かな光もいまは差し込んでいない。色鮮やかに見えていた景色も、豊富なかおりが漂う部屋も、過去のものになった。いま目に映っているのは青黒くすらない、灰色の世界だった。  こんな世界が見たいがために、私は配線を捨てたわけじゃない。 「わかった。貞子なんてもう知らない。絶交よ」 「……!」  心臓が金槌で叩かれた。肩が上がり、爪が食い込むほど握りしめた。聞こえてきた言葉が、視界を一気にぼやけさせる。  溜め込むための容器が破裂し、感情がだだもれる。泣いちゃだめだ。いま泣いてしまえば、言葉を失ってしまう。そうなると一生泣き続ける羽目になる。込み上げる涙を押し殺して、ようやく、ふたりに言葉を渡した。 「やだ!!!」  続けざまに、言葉を紡いでいく。 「こんな方法間違ってるって知ってる。けど、こうでもしないと、みんな私から離れちゃう。せっかく友達になれたのに離れ離れになるの嫌なの!」  情緒が不安定で、自分でも制御できているかあやふやだった。ちょっとでも言葉を間違えたら、机の上から飛び降りそうな気持ちだった。  ふたりは度肝を抜かれ、呆然と私の話を聞いていた。いや、ただ突っ立っているだけかもしれない。それならそれで、告白がしやすかった。 「ふたりと過ごしているうちに、家族ってこんな感じなのかなって思えて、それから毎日がすっごく楽しかったの。こんな日がずっと続いたらいいなって心から思った」  我慢していた涙が既に限界を迎えていた。どぷっどぷっと涙が流れ出し、次第には声を上げて咽び泣いていた。 「私の能力じゃふたりを連れて行けないの! だから……ここでお別れなの!!」 「わかってるわよ!!」  静かに聞いていたひき子が唐突に声を荒げた。体を小刻みに震えさせ、眉間にしわを寄せて睨んでいた。いままで静かだった理由は流れている涙にあった。  ひき子は私に近寄りながら言葉を投げかけてきた。 「あんたが能力使えないのも、毎日楽しかったのも、これで最後だってのも、全部……全部わかってたわよ!! そのうえであんたに協力してたんでしょうが! 離れ離れになる? 馬鹿いうじゃないよ。友達ってのは心で繋がってるのよ。どんなに遠くないようとも、決して繋がりはきれたりしないわ!!」  目の前にひきこのがいる。その少し後ろにちさがいる。ふたりと目があった。  あぁ、やはり友達というのを理解していなかったらしい。私が思っていた以上に、強い光が差し込むんだと思い知らされた。まるで井戸の底で眺めていた星のように、心の中でキラキラと輝いている。  おもむろに手を伸ばし、ひき子に抱きつく。何度も何度も「ごめん」と謝りながら、涙を流し続けた。ひき子は私を受け入れると、頭を優しく撫でてくれた。耳元で「馬鹿」と呟き、ぎゅっと抱きしめた。  あとからちさも加わり、三人で熱い抱擁を交わした。決して、何者にも邪魔されない固い絆がそこにあった。  事態も落ち着き、目元が赤い私たちは落ちた配線を回収することにした。配線はちょうど真ん中あたりに引っかかっていた。ひき子が持ってきた紐を私に結びつけて、残りのふたりが紐を引っ張る作戦だ。 「うぁ高いなぁ。面倒くさい」 「あんたが捨てたんでしょ。責任持ちなさい」  ぎゅっと紐を結んで、引っ張って解けないか確認する。ゆっくり縁に座って、ふたりに合図を送り、下に降りていく。障害物は一切なく、順調に降りていった。  ひき子の指示で降りる速度を調整している。私もどのくらい降りたかを上にいるふたりに叫んで伝えた。あと、もう少しで配線に手が届く。 「もうちょっとだって。頑張ろうちさ……あ」  急に降下が止まった。次の瞬間、悲鳴がここまで響いてきた。状況がまったくわからず、宙ぶらりんになりながら彼女らを待った。 “チュウ”  かすかに聞こえた声に聞き覚えがあった。二度あることは三度ある。ネズミだ。 「ぎゃぁぁやばいやばい! いったん貞子持ち上げよう!」 「ひき子、任せた」  まるでなにもわからず、ひとり取り残されていると、また降下が始まった。せめてどういう状況なのか、ひき子に説明を求めた。  どうやら、ネズミが出て、襲ってきたが、ちさが囮になって机の上を駆け巡っているらしい。どうりでさっきから鈴の音が聞こえると思ったらそういうことだったのか。 「ちさは口裂け女で足が速いから、囮にはうってつけってことね」  ちさのためにも早く配線を引き上げねばならない。ゆっくり降りていき、腕を目一杯伸ばす。こつんと指先に当たり、それをすかさず抱きかかえた。  紐を二回、短く引っ張る。これが上昇の合図だ。降りるときよりも上がるほうが速く、ひき子の頑張りがうかがえた。私も落とさないように、必要以上に配線を抱きしめた。  あともうちょっと。あともうちょっとで机にたどり着く。そのときだった。また急に止まってしまった。 「ひき子どうしたの!」 「ち、力が入らない……」  ここまでの無理強いがもろに出てきた。ひき子は紐を握っているのが精一杯らしく、引き上げれないかと試みるも、かえって手を滑らせて落ちてしまう。  自力で上がりたいが、私が揺れるとひき子の腕は死んでしまう。だからといって、中途半端なところで宙ぶらりんも勘弁してほしかった。なにかないか、なにかないか。頭を回転させていると、ひき子が何か思いついたらしく、ちさに向かって叫んだ。 「ちさ! 紐の端っこ持って!!」  次の瞬間、ものすごい勢いで私の体は引き上げられ、宙に放り投げられた。しっかり配線を持ったまま、教科書の上に落ち、するすると滑って机の上に舞い戻った。  身の安全を確認し、配線をいったん置いて紐を解いた。 「なにがどうなったの?」 「ちさに紐を持ってもらって、ネズミをひっかけたのよ。思いのほか吹っ飛んだわね」  拳を口の前に持ってきて笑うひき子。なにやら独特なポーズをとってドヤ顔するちさ。  ふたりが私を起こすために手を伸ばしたそのとき、光が差し込んだ。暖かで神々しい光が、布の形を帯びて部屋を照らす。よく見てみると、部屋中が色を取り戻し、雨の音も消えてなくなっていた。 「さあ貞子、いくわよ」 「うん」  配線を差し込み、反対側も四角い白い箱に差し込んだ。その瞬間、画面になにやら模様が浮かび上がった。ひき子いわく、充電がなくなったときにでる模様だそうだ。  充電をしている間に、いままでの出来事を振り返る。はじめての世界、はじめてのもの、はじめての出会い。もうこれが最後だというのに、いつもの雑談とさほど変わらなかった。いつもの私たちだった。  私がぼけて、ひき子がつっこみ、ちさが笑う。ひき子がキャラ崩壊して、私が制して、ちさがおちを言う。本当に、本当に、このふたりは……。 「家族みたいだ」  ぽろっと本音が漏れる。それが恥ずかしくて顔を赤く染める。 「貞子、友達のさらに上の存在があるのよ。それはね……」 「親友」  ちさがおいしいところを奪っていく。親友、その言葉の響きがたまらず好きだった。何度も口にして、自分で照れる。 “ポン”  スマートウォッチがうなりをあげた。どうやら充電が完了したらしい。とうとうこのときが来てしまった。画面に手のひらを乗せ、力を少し入れてみる。すると、画面は波紋をつくり、向こうの世界と繋がった。  本当に帰れる。  夢にまで見たこの日、まさか来るとは思わなかった。まさか友達ができるなんて、だれが予想できただろうか。  心の片隅に帰りたくないという気持ちが堆積している。とても根強く、一瞬で心を持って行きそうなほどだった。 ——帰らないと……お師匠さまが心配なさる。でも……。  表情を見せまいとうつむいたが、画面に反射して、みっともない泣き顔をふたりに見せていた。 「貞子……」  帰りたくない。ふたりとずっと一緒にいたい。そういえたらどれだけ楽だろうか。拳を握り、体を震わせる。必死に、必死に言葉と涙を抑え込んだ。  ばっと立ち上がり、ふたりに飛びついた。大好きなふたりに抱きついた。 「本当にありがとう……! ひきこののことも、ちさのことも絶対に忘れない! ずっとずっとずぅーっと! 友達だから!!」 「あたしも……!」 「ちさも!」  三人顔を寄せ合い、涙を合わせる。いままでの記憶を刻み込むように、未来の自分に残すために五感を使ってふたりを感じた。 “ガチャガチャ”  金属が擦れる音がした。この音がすると必ず人間が帰ってくる。もう残された時間はない。それを理解し、後ろ髪をひかれながらも、スマートウォッチに手をかける。すーっと息を吸ってお腹に力を入れる。  画面は白く光だし、砂嵐になった。これで完全に繋がった。と、そのとき、人間の足音が聞こえた。無理やり背中を押されるように急かされ、片足を入れる。 「ふたりとも、元気でね……!!」  最後に見たのは、涙ながらに手を振るふたりの姿だった。
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