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【エピローグ】
私はいつも見上げていた。狭くジメジメとした井戸の中で、はるか上空に点在する白く煌びやかな光を数えながら、目にそれを宿していた。お師匠さまは“星”とよんでいた。
なにもない井戸の底で、私は寝そべって、届きそうもない星に手を伸ばす。いつか行ってみたい、そんな願望を妄想するが、背中に伝わるじわりとにじんだ冷たさが現実に連れ戻す。
「貞子、入るよ」
お師匠さまがやってきた。いつもどおり、井戸の出っ張りを利用して、ゆっくり無音を響かせながら降りてくる。お師匠さまが底へつくと、一気に狭く感じた。
「いやーすまんね。予定が長引いてしまって、しばらくここに来れなかった。寂しくなかったかい?」
私は口を三日月にのばし、春のように花を咲かせて笑い、髪の毛を風邪でなびかせた。
「寂しくなかったです」
「そうかい。じゃあ今日も人間の脅かし方やるから、まずは基礎練から」
「はい!」
お師匠さまとのやりとりがとても懐かしかった。練習と雑談を交互にしながら、いつもの練習をこなす。あらためて自分が貞子なんだと、しみじみとかんじていた。
時間はあっという間に過ぎて行き、お師匠さまは帰ろうとしていた。そこを後ろからぎゅっと抱きしめた。
「大好きです。お師匠さま」
「な、なんだい急に」
いつも冷静で堅物なお師匠さまの顔が赤らんだ。恥ずかしそうに顔をそらすお師匠さまはほんの少し雑に頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。
お師匠さまが帰り、またひとりになる。あの世界に慣れてしまい、井戸の底がひどく狭く感じていた。昔の自分はいったいなにをして暇を潰していたのだろうか。
「そうだ」
出っ張りに手をかけた。すぐ戻ってくれば問題ない。自分で自分を説得して、出っ張りを登っていった。はじめて登ったときより、あきらかに順調だった。中盤くらいまで登っても腕は疲れず、息も上がっていなかった。
頂上へ到達し、井戸の縁に座る。ふっとひと息吐いて、空に目を向けたが、あの日と変わらず木々が星を隠していた。井戸の底でじっとしているのも嫌だが、ここにいてもやはり暇だった。
“ビビッ”
星の輝きの数倍もの光が流れ込んできた。激しく見覚えのある光で、どくんと心臓が深く鼓動した。手で目元を隠しながら光に注意を向ける。その青白い光のもとは真四角だった。
足が先に動いた。生き別れた家族と会うように徐々に速度を上げていった。
——きっとそうだ……絶対そうだ……!
光のもとへたどり着いた。やはり、この大きさと形はスマートウォッチの画面だ。この向こうに、彼女らはいる。そう信じて触れようと手を伸ばした。
「なにしてんだい」
「おおお、お師匠さま!? ごめんなさい。すぐに戻ります……」
こうべを垂れてとぼとぼと井戸の底へ戻ろうとした。そのとき、またお師匠さまが言葉でさえぎった。
「行ってきな」
不意をくらい目を丸くした。お師匠さまはこれ以上なにも言わず、ひととき私を見つめてから去っていった。その背中に向けて大きく頭を下げた。
「ありがとうございます」
ぱっと画面に向き直り、深呼吸をする。手をかざして画面に波紋を作り出した。待ちきれずたかぶる心臓を手で抑え、両足で思いっきり飛び込んだ。
* * *
机の上に寝そべって日向ぼっこする。柔らかな光の毛布がかかっているように、全身に均一な重みを感じる。隣にはいつのまにか眠りに落ちたちさが、まるで天国にいるようなとろけ顔をしていた。
引きこもっていたころよりも、心なしが体が軽くなった気がする。日を浴びて、体を動かし、よく寝る。あのころの自分から想像できないほど、健康で文化的な生活をしていた。しいていうなら、最近ほんの少し暇になっただけ。
「元気にしてるかなぁ……」
「ん……。おはよぉ」
むくっと起き上がったちさが目をくりくりと擦っている。このまま寝て過ごすのもいいが、今日はあそこへ行く予定だ。
机から降りて、日が差し込む床を歩いていく。もう何週間もたったのに、まるで昨日のことのように思い出される。好奇心旺盛な心霊の少女と、そういえばあそこで遊んでいたっけ。
ちさとだべりながら歩くこと数分、目的の場所にたどり着いた。人間が作業に使う机だ。あの日、間一髪逃げれた私たちは人間にばれないように、机と壁の間に紐を垂らしていた。そこから机の上へ登れる仕様だった。
相変わらず汚い机の上を拝み、スマートウォッチを隠している場所へ向かう。箱から取り出し、充電をする。どうせ会えないとわかっていても、充電を切らしたくなかった。彼女との思い出が詰まったこのスマートウォッチを失いたくなかった。
「ただの暇つぶしよ。ね、ちさ」
「ん? ひきこ子、見て」
ちさの目がさしているのはスマートウォッチだった。画面が不気味に乱れ始め、次第に砂嵐になる。まるで水面のような波紋を広げていた。
まさかと思い、画面を覗き込む。まだなにも見えない。もっと近くで……。
「……子、ちさ」
女性の声が遠くから聞こえた。耳をすますために画面にぐっと近づいた。
“ビビッ”
次の瞬間、顔面に衝撃が走った。岩で頭を殴られ、脳が振動する。
「いたた……。もうなにす——」
「ひき子!!!」
画面から出てきた人物が私に抱きついてきた。春に芽吹く植物のように、暖かなかおりを身にまとい、雪解けのような表情を作るのであった。
膝まである長い黒髪、右目を隠している顔、ぼろぼろの白い服。見るからに鈍臭そうで無知な女の子で、あたしの大切な親友だ。
「あんた、なんでここにいるのよ」
「えーっと、どこから話そうかなぁ」
相変わらずマイペースな貞子は考えるのを放棄して、ちさとわちゃわちゃたわむれている。揺れる黒髪と貞子の声がとても懐かしく、目頭が急に熱を帯びた。
ゆっくり立ち上がり、平然を装うために手を上着に突っ込む。
「しょうがないわねぇ。拠点でゆっくり話聞くわよ。貞子さん、久しぶりの、カプセルはいかがかな?」
「え! まだ残してあるんだ」
「拠点、豪華、貞子の、全部ある」
「そりゃあびっくらこきだね」
貞子をふたりではさみ、言葉を交わす。止まっていたときが一気に流れ、景色もすべていろどりを取り戻す。貞子が帰ってからの出来事を話したくてうずうずする。
そのまえに、ふたりで貞子のまえにでて、伝えるべき言葉を伝える。
「「おかえり」」
「ただいま!」
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