【第一回 迷子の貞子】

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【第一回 迷子の貞子】

 暗く埃が溜まっているこの片隅に、膝を抱えてうずくっていた。目の先には、まばゆい地面が広がっていた。少しでも足を踏み入れたら消えてしまいそうなほど、暖かく、目の奥を刺激する。  立ち上がれば頭がぶつかるほど低く、手を地面について膝を擦りながら進んでいく。近づけば近づくほど、瞼を狭めていく。光の絨毯はすぐそこ、手を伸ばせば触れられるところにある。でももし触れてしまったら、痛いかもしれない。目が見えなくなるかもしれない。  頭に抗うように手を伸ばした。心臓がラストスパートをかけ、私を悩ませる。好奇心という邪念に身を任せるしかなかった。 「あ、暖かい……気持ちいい」  ぐっと瞑った目をじんわりと開け、手足を使って体のすべてを光にさらした。井戸の底とはまるで世界が違った。色と形が鮮明に映り、布を被せられたように温もりが全身にピタッと張り付く。わっと声を出しても響くことなく、文字が分解されて空中に溶け込んでいく。  体を起こしてあたりを見渡すと、見たことのないもので埋め尽くされていた。木の一本も生えていない。それどころか、土も苔も、石ころすらここにはなかった。森の木よりもはるかに高く、途方もなく遠い、四角い箱のような場所だった。 「人間はこんなところに住んでるんだ。あれ、そういえば私どこからきたんだ?」  記憶を頼りに上を見やる。お師匠さまから教わったテレビというものはいまのところ見つからない。木でできた大きな箱には三つ、丸い出っ張りがある。しかし手をねばしても、力一杯飛んでみても、木の縁にしか届かなかった。  おそらくあの上にテレビがある。しかし、いまの自分ではあそこまで辿り着けない。せめてその見た目だけでも拝もうと、後退りしながら首を動かす。縦長の木箱の上にあるはずと、眉間にしわを寄せて、手を額に当てて、視線を投げる。 「あれ、テレビっぽいのがない。どうしよう……帰りたいのに……。このまま取り残されたら……お師匠さまに怒られる!!」  たとえそこにテレビがあっても、どうやって登るのか。灯台で隠れた事柄に気づいたのはもう少し経ったあとだった。  右を見て左を見て、手をかぎ爪にして髪の根本を掻きむしる。たらりと顔を伝った冷たい汗が、揺さぶられて飛び散る。膝まである黒髪がバサバサと乱れる。 「落ち着け私、落ち着け私……! そうだ。もしかしたら、別の場所にあるかもしれない。落っこちて、闇雲に走ってたから、場所が違ったかもしれない」  空気を含んだ髪の毛を手で撫でる。伸びに伸びた前髪も、手の櫛でほぐしてすーっと下へ流す。小指を使って左目をあらわにする。遠く彼方に飛んでいったボールが戻ってきたように、正気を取り戻す。  肺に空気を入れて、その色味のある冷たさを味わい、ゆっくりと吐き出す。小さな拳を胸の前に持ってきて、肩をすとんと落として力を込める。体の内側から薪をくべたように、燃え上がるものを感じた。 「よし! そうと決まれば探すのみ! 頑張るのよ貞子。何年かかっても、この身が朽ち果てようとも、テレビを探し出して、必ず井戸に帰って見せる……お師匠さまの名にかけて!!!」  ビシッと指をさしたその先、自分でもびっくりするくらいすぐそこに、テレビがあった。  ズコーっという背景の文字とともに、全身を地面に投げ出して、横に滑り流れていく。画面から抜けた体をトボトボと足を動かして、元の位置に戻ってくる。異様に寝静まった心臓、言葉を生み出さない口。熱意のこもっていた依代は空っぽになり、ため息を垂れ流す。  ふっと引きずった笑みを浮かべて、異常事態に心を浮つかせていた自分を嘲笑う。 「ご愛読、ありがとうございました……。雨夜先生の次回作にご期待ください……」  黒い四角い箱の上にそびえる巨大な画面。身長の十倍以上はあるのではないだろうか。お師匠さまに教えられたとおりのものがそこにあった。テレビから伸びている黒い紐をつたって、一番上までのぼる。縁に座りあたりを見渡すと、人間の生活が垣間見れた。  リモコンが置かれている机、大きな布がかけられている窓、天井からぶら下がってる謎の紐。どれもこれも、見たことも、使い方も、名前すら知らなかった。湿気のない暮らし、色で溢れている暮らし。井戸の底で自分の吐息を聞くこともなく、かびと苔がこびりつく服を結露で洗うこともない。 ——うらやましいなぁ……。  心から漏れた言の葉は、やはり響かなかった。テレビの縁に触れていた髪が、無造作に吹かれる。 「帰ろう。お師匠さまが心配してしまう」  自分で自分の背中を押す。自分で自分の後ろ髪を引っ張る。  両手でテレビにぶら下がって、足の裏をぴたりと画面につける。片足で蹴って、体を浮かせ、反動をつけて画面の中、元いた場所へ帰る。やり方は知っている。頭の奥深くまで意識を持っていく。まだ未熟な私は感覚が全身を纏うまで集中しないと、貞子の能力が使えない。  ふっとへそに力を込めて、画面の中へ飛び込む……はずだった。 「いてっ!!」  体を振り下ろした勢いのまま、テレビに跳ね返された。じんとした感覚が足の裏から這い上がり、頭のてっぺんまで届く。目の前は黒い画面が広がり、数秒前と景色は変わらなかった。  もう一度足で蹴ってみる。二度目がだめなら三度目の正直。これでもかと、頭に血を上らせながら、両足で地団駄を踏むようにドタバタと蹴り続けた。それでも結果はすべて同じだった。  握っていた手が限界に達し、存外あっけなく、するりと手が抜けた。臓器がふわっと持ち上がり、背中から落ちていく。力が入らない手は中途半端に、なにかを掴みたがっていた。あの日と同じく、重力に身を任せ、黒い台にぶつかり、ボールのように跳ねて地面へ転がった。  頭をさすりながら、テレビを見上げる。本物のテレビだよなと、頭の片隅に生まれた疑惑をやにわに膨らませる。 「どうして……。私の能力が足りなかった? でも全然入ってこれたし、あれはテレビで間違いないし」  その場を行ったり来たり、腕を組んだり頬に手を当てたり。猫背の姿勢をとり、左手を腰に添えて、右手は塩をつまむようにすぼめて顔の前でうろちょろさせる。背景にすーっと白い線が横切る。 「これは難解な事件ですねぇ」  自然と声も掠れ、本題からそれる。頭をかきむしり、お師匠さまに怒られるかもしれないという焦りを発散させる。こんなことをしても、なんの解決にもならないのは自分がよく知っていた。帰れないという文字が脳の内側にまでこびりついている。  半分の諦めと疲労感を床に投げ出し、その場にくしゃっと尻をついた。もしかしたらテレビの向こうにお師匠さまがいるんじゃないかと淡い期待がよぎる。助けを乞うように、天を仰いだ。 「お師匠さまぁぁぁ! ごめんなさぁぁぁいぃぃ!!」  前髪で隠れた右目からも涙を流し、床に水溜りを作る。そこに映る私はなんともちっぽけで中身のない抜け殻だった。皮だけ立派な貞子だった。その皮すら、しわくちゃになってしまっている。 “貞子……”  はっと、水道の蛇口を閉めたように涙は止まった。脳内に響いたのはお師匠さまの声だった。つい最近、いやもっと前のことだろうか。唐突に思い出した会話を逃さないように、焦点のないぼやけた記憶を手繰り寄せる—— 『貞子、画面にはさまざまな大きさがあるんだ。それによって私たちの大きさも変わる。能力を極めれば好きに体の大きさを変えたりとか、出入りする画面も選べるようになる』 『すごい……! 私もいろんな画面を行き来してみたいです!』 『そんなすぐには習得できないよ。貞子はまだ未熟。体の大きさも変えれないし、一度出たら、“同じ画面”からじゃないと戻れないからね。わかったなら、今日も基礎練だよ——』  天が光った。どこからともなく、雷が全身を貫く。地面に叩きつけられたような衝撃が頭のてっぺんから地面へ流れる。一瞬にして髪の毛は逆立ち、瞳は居場所を失って白目をむいている。 「やってしもたぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」  自分がなにをしたのか自覚し、今度は内側に衝撃が走る。元々色白だった肌も穴が空いた容器のように血がすーっと流れていく。先ほどテレビに入れなかったことに合点がいく。謎が解明された清々しさ以上に、やってはいけない過ちを犯した焦りが心臓を半殺しにする。  髪の毛を両手で鷲掴みにし、行き場のない、あるいは溢れてしまった感情を発散させるために八つ当たりする。 「どおりでこんなちっさいわけだよ! 二頭身なわけないもん私!! テレビだってお師匠さまから聞いてた感じと違ったし……もう!! 切腹じゃあああ!!」 “井戸の底、戻れずじまい、ミニ貞子、画面の外で、死んでお詫びしますので許してください本当にごめんなさいお師匠さま本当私なんか……”  辞世の句というのも忘れて懺悔に勤しむ。たらたらと垂れ流れて、ジメジメとした負の感情にはカビが生え、私の周りは井戸の底に等しかった。そのまま川に流されようとも思った。なにもかも放棄した体を投げ出して天を見上げる。ちょうどそのとき、ちらとテレビの画面が視界に入った。  地面に身を委ねた体制を変えず、ゴロンと横を向く。特になにをするわけでもなく、ただただ、ひたすらにテレビを眺めていた。黒びかりする板の向こうに、私の住む世界がある。慕っている人がいる。ひとりぼっちになった私を拾ってくれたお師匠さまがそこにいる。  会いたい。帰りたい。  浮遊していた体が現実に戻ってくる。床の冷たさ、髪の手触り、呼吸する音。血の脈が巡りだし、白い肌がほんのり色づく。やにわに立ち上がり、ぐっと骨を伸ばすように背伸びする。すとんと両手を下ろして、実にゆっくり、深呼吸をした。 「絶対に帰ってみせる……!!!」  体の奥、ゾクゾクするものが膨らんだ。鍋に入れた水が沸騰して蒸気を出すそれ、まさしくそれだった。お師匠さまに会うために、自分の居場所に帰るために。もちろんそれだけじゃなかった。自分を成長させるために、この試練を乗り越えたい、いや、やらねばならない。  目の奥、水晶体がきらりと輝く。この先を、私の旅路を見据えるように。
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