【第三回 ガチャ】

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【第三回 ガチャ】

 “ガチャン”  重たい金属の音で目が覚めた。人間が部屋から出るときはこの音がなるらしい。部屋に漂う音を拾い、あらためて人間がいないことを確かめる。  目覚めは存外清々しかった。昨日あんなに涙を流していたのに、いや、だからだろうか。川のほとりにいるような涼しさが全身を包む。握っていた布はボロボロになり、くるくるっとまるめると、ひとつの塊となった。 「よし」  その場にぽとりと落として暗闇から出て行く。この時点で目的や動機はまったくなかった。もちろん、拠点や私が入ってきた画面を探さないといけない。ただこのときは、日の光を浴びたいという生物の摂理が体を動かしていた。心霊である私も、もとは人間だったのだろうか。  日のもとに照らされて、無音の部屋をてちてちと散歩する。昨日まで拠点だったあの箱は消えてなくなり、殺風景になっていた。くるりと目をまわすと、さまざまなものが床に落ちている。台の下、影になっている隙間以外にも、部屋の中央にポツンと置き去りにされているものもある。  テレビの正面には四本足の台が置いてある。足は円柱で光沢があり、表面の柄を見ると、木でできているらしい。私の住んでいた井戸と同じ長さの高さがある。この台の周辺だけ地面の感覚が違う。木の床ではなく、毛が生えた布がひいてあった。 「足の裏そわそわする。ジャンプしても痛くないし、ここで寝転がったら気持ちよさそう……おぉ……びっくらこくほど気持ちいい。いいなぁこの布欲しいなぁ 。でもダメなのよ貞子。ここは拠点にできない。優秀な貞子は失敗から学ぶのです」  名残惜しく立ち上がり、別な場所に移動しようとしたとき、目の片隅になにかが映った。影がかかっていても、白く鋭い光がこちらをよんでいる。近くに行ってみると、両手で抱えられる大きさの円盤が静かに寝そべっていた。  石よりもひんやりしてて、鈍い灰色の表面はやすりで削ったような光沢がうかんでいた。円盤の縁はギザギザ細かい線が入っており、表面に“100”という数字が刻まれていた。興味本位でひっくり返してみると、植物のような柄が描かれていた。  歴史的遺物を発見した感覚が肌を伝ってきた。わくわくと心躍ると同時に、それより、この円盤の冷たさで頭がいっぱいだった。ゆっくり膝をついて頬をぴたりとくっつける。ぴくっと、自分でつけておいてびっくりし、顔の側面を徐々に密着させる。冷たさに浸り、もう少し味わいたいというところで、人肌になってしまった。  裏返して、今度は全身を無理やり円盤にねじり込ませる。ちょっとでも多くひんやりを感じたいがため、試行錯誤をした結果、両足両手をピーンと伸ばして頬をだらしなく乗せた。これが一番、楽だった。 「あぁ……よきかなぁ……」  結局今度もすぐに生ぬるくなってしまい、頬をくっつけている意味がなくなった。ごろんと円盤から離れて、芋虫のように体を折り曲げて立ち上がる。  両手に力を込めて円盤を立たせる。見た目に反してそれほど重たいわけではなく、その気になれば持ち上げることもできた。 「なにに使うんだろう。百……ひゃく? 重さかな? ほかにも文字が書いてあるけど、よく見えないや」  円盤を転がしながら日のもとに移動する。光が触れた瞬間、目の奥に星が飛び込んできた。円盤は激しく光を反射し、にぶい灰色から白銀へと姿を変えた。  たまらず手を放して目を覆う。その拍子に、円盤はコロコロと転がっていった。私が支えていないとすぐ倒れてしまいそうだったのに、薄っぺらな円盤は実にしっかりと進んでいった。それがあまりにも奇妙で、追おうとせずに呆然としていた。まるで導かれるようにすーっと転がり、しばらくして弧を描いてその場に倒れた。  チャリンと軽い音が鳴り響いた。 「わぁ……すごい!」  両腕を横に伸ばしてぼてぼてと走り寄る。膝を揃えてその場にすっとしゃがみ、握り拳でコンコンと叩いてみた。どうやら生き物じゃないらしい。中になにか入っているわけでもない。  円盤を起こしてみる。円の縁に手を乗せてみる。左右にぎこぎこ揺らしてみる。安定感はやはり乏しかった。手のひらで握っていないと紙ぺらのように地面に寝そべってしまう。ぎりぎり自立するのが難しい厚み。その事実をきっかけに、ひとつの真実にたどり着く。 「これは転がして遊ぶ物なんだ! 表面に書いてある数字は難易度、あるいは得点。ぎさぎざなのは地面と滑らないようにするため。ふふふ……この貞子、完全に見切った! チェストォォォォ!!!」  腕を動ける限りの範囲を使って全力で円盤を転がそうとする。しかし、進むどころか、滑ってその場に倒れてしまった。どうやら力任せにするのは間違っているらしい。今度は慎重に、左右の均衡だけを意識して、笹舟を送るようにそっと手を放した。  円盤は調教された動物と同じく、されるがままに転がっていった。一回目、まぐれで転がったときよりも距離は伸びなかった。それでも、足さきからじわっとした感覚が這い上がってきた。  私も感情のおもむくまま、笑壺に入った声をこぼす。それを動力に床を駆け回る。すぐさま円盤を起こして転がす。一回目より二回目、二回目より三回目と、回数を重ねるにつれて精度が高くなる。少し手前に傾けて転がして大きく曲がらせたり、わざと段差や物に当てて跳ねさせたりと、練度も増していった。 「今度はものすごく傾けて……それっ!!」  それはもう転がす、ではなく投げるに近かった。円盤は低空を飛んでいき、何度か床を掠って、暗闇に消えていった。予定していた動きではなく、自分が一番驚いた。頭をぶつけないように気をつけて暗闇を進んでいくと、力尽きた円盤がいた。二枚、同じ円盤があった。  二枚の円盤を引きずり出し、明るいところでその詳細を確認する。どちらとも、色や形、文字が同じだった。一部、漢字が違うところがあり、そっちの円盤はさっき遊んでいた物と比べて、輝きが薄くくすんで見えた。  自分の体を挟むように円盤を立たせ、右手と左手、それぞれ前後左右に動かす。二枚目を見つけてから、すでに頭の中はひとつの思惑で満たされていた。腰を落として、溢れた思惑を顔面に宿し、手慣れたように円盤を傾ける。 「ひれふすがいい……これが貞子の……二刀流じゃあぁぁ!!」  手から放たれた円盤は床を切りつけながら縦横無尽に駆け巡る。一枚から二枚に増えたことにより、単純に遊びの幅が二倍になる。転がしては拾い、転がしては拾いを繰り返す。  汗ばむ体も赤らむ手のひらも、円盤に魅入られている私には気づかなかった。ただただ、目の前のものに食らいついて、快楽物質が脳から分泌される。それがなにより楽しかった。昨日の失敗も不安も綺麗さっぱり消えていた。  放り投げたうちの一枚がまた隙間に吸い込まれていく。そしてまた新しい円盤が手に入る。気がついたときには円盤が四枚になっていた。なにかに取り憑かれたような狂気じみた笑みが張り付いた。 「あははは!! まだまだ遊ぶぜぇぇぇ!!」  部屋を照らす光は赤みを増し、影を長く引っ張る。円盤を四枚重ねて、その上で体育座りをし、自分の影を見つめる。 「なにしてたんだ私……」  ふと我に帰ったのはついさっき、外からカラスの鳴き声を耳にしたときだ。こっちの世界にもカラスがいることの驚きより、自分が費やした数時間に血の気が引いた。汗で湿った服が体に引っ付き、熱を奪っていく。手の皮の荒れは円盤への没入度を意味していた。  ふーっとため息をついて焦点の合わない目を床に落とす。疲れ切った体はなにもしたくないと願望を申し立てる。 「この円盤、ばらまいて遊んでいたときは楽しかったのに、こうして一ヶ所に集まると変なにおいしかしない。血みたいなにおい。なんで気がつかなかったんだろう」  ぱたんと後ろに倒れて、手足を放り出す。寝そべってみると、やはり私の体ははみ出てしまう。宙に浮いた腕が居心地悪そうに向きを変える。べたついた髪の毛が顔に引っ付き、息を吐いて取り払おうとするが虚しく揺れるだけだった。  とうとう動くのですら面倒になり、諦めがついて人形と化す。赤く色づいていたはずの全身は知らない間に影に覆われ、残された顔も徐々に黒く染まっていった。ひと呼吸、ふた呼吸しているうちに、私は色を失った。 「体洗いたいなぁ……」  むくっと起き上がり、あたりを見渡す。どこかに水分はないかとボサボサになった髪を振る。そうこうしていると日没になり、暗闇に取り残されてしまう。それまでに汗を流して、休める場所を見つけなければならない。  ひとまず円盤から降りて、明るくてらされている地面を目指す。肩や足、腰が悲鳴をあげているのが聞こえた。井戸の底でも退屈しのぎに動いていたとはいえ、壁がない場所を走り回ったのは初めてだった。それが余計に体を動かし、容量を超えたのかもしれない。  両肩を回して首を捻る。両手を組みそのまま突き上げて、背中を伸ばす。確かに痛い。でもほんの少し気持ちよかった。  ぶらぶら適当に歩いていると、視界がぼやけた。一瞬暗くなったと思えば、強い光が顔に当たった。 「え、なに……」  体をきゅっと固めて後ろへ数歩下がる。足元を見てみると、複雑な模様を描いた光が影の中に広がっていた。三日月のようなものもあれば、針のように鋭いものもある。  恐る恐る頭を持ち上げて、影の主を拝む。薄く開けていた目を段階を分けて広げていく。じっとそれを見つめてようやく頭が無害なものだと判断した。透明な円柱の容器に透明な液体が入っていた。  近づいて手に触れてみる。手のひらで叩くとぼよんと鈍く響く音がした。それに合わせて液体もぶるりと揺れる。これは私の知っているものだ。これほどまで大量にあるなんて知識の外だ。井戸の底でもたまったことがない。 「水だぁ」  はるか上空に水面が見える。透明な水は赤い光に照らされても、白や青といった色を放っている。この容器を輪切りにするように等間隔でくぼみが設けられ、てっぺんはきゅっとすぼんでおり、黄緑色をしていた。  これだけの量があれば私の体なんて何回でも洗える。ほかにめぼしいものはないか一応確認する。私の行動範囲内にはなさそうだった。そうと決まればあとは早かった。容器を押したり持ってみようとしたりして、中身を取り出そうとする。しかしびくともしなかった。 「はぁはぁ……また汗かいちゃう。水が入っているってことはどこかからいれたってことだよね。あの上のやつが気になるけど……どうしよう」  黄緑色の部分から目を離さず、遠巻きに観察しようと後ろ向きで歩く。周りに比べたらそれほど高さはなく、よく見たら容器の中すべてが水で満たされているのではなく、三分の一ほどは空だった。あぁと水面が見えたことに対して納得の声をこぼす。  といっても黄緑色に届かない事実は変わりなかった。一旦彼を保留してほかの手がかりを探る。近くの壁際には物がたくさん置いてあった。板で仕切られた縦に長い箱、それに収納するように乱雑に物が置かれている。似たようなものは別なところにもあった。どうやら人間は左右だけじゃなく、上下方向の空間も活用しているらしい。  下から数えて二番目の空間から黒く細長い紐が垂れていた。近づいて実際に触ってみると、なぜか知っている気がした。まえにも出会ったことがあるようなざわめきが頭に現れる。  ぎゅっと握って首を傾げる。眉間にしわを寄せて記憶を辿る。昔からというよりむしろ最近のような……。と、考えて間もなくはっとする。一度出てきたらそれが頭を埋め尽くす。 「テレビの配線だ! こっちのほうが細いけど、触った感じはほとんど同じ。もしかして、小さい画面に使うやつなのかな?」  ぐっぐっと下に引いて、落ちてこないか確認する。両手の汗を服でぬぐって、配線を握る。あの巨大なテレビに登ったことがあるせいか、板で仕切られたところまで登るのは造作もなかった。  上から容器を探す。そこまで離れていないが飛び移るのは難しい位置だった。たとえ飛び移れても水を取り出せるかはまた別な問題。  この空間になにがあるのか後ろを振り返るも、大小さまざまな箱やぐちゃぐちゃにからまった黒い配線があり、いますぐ使えるものはなさそうだった。 「もっと上に行ったらあるかなぁ。あ、この紐なんだろう……えい!」  上から垂れ下がっていた紐を半興味本位で引っ張った。おそらくこれを使えば、また登れるだろうと断定していた。しかし、予想は妄想だったらしい。  目の前に、紙一枚先に現れたのは逆さまに落ちていく人間だった。いや、人間らしさは塩ひとつまみほどで、手足や顔が角ばった形状をしていた。どちらかといえば、人間が中に入っているような、そんな印象だった。手に棒状のものを持ち、戦いに備えていたのだろうが、無惨にも二頭身の “ガッシャーン!!”  一瞬にして背筋が凍った。慌てて身を乗り出し床を見てみると、悲惨なことになっていた。腕や足がばらばらになり、細かな部品もはちゃめちゃに飛び散っている。  急いで下に降り、現場に駆けつける。上から見下ろすのと、同じ高さで目撃するのでは圧迫感がまるで違う。自分よりも数倍ある体の持ち主がこうもあっさり壊れているのが不思議であり、恐怖でもあった。  透明な容器に命中したらしく、一緒に横たわっている。 「あ……あ……そんな、私そんなつもりじゃ……」   ぼたっと踏み出した足。一歩、また一歩と動かしていくうちに速度も上がっていく。散らばった彼の一部を避けながら走る。片膝をつき、胴体から外れた頭を優しく抱き抱えた。  自慢だったであろう頭の突起は床に落ちた衝撃で折れてなくなっていた。顔には傷ひとつなく、真新しい塗装が鮮やかな輝きを放ったいた。それがより一層、罪悪感を掻き立てる。 「ごめんなさい! 私のせいであなたが……」 「いいんだよ貞子、君が泣くことじゃない」 「よくない!」  もちろん、一人二役である。  ぐっと頭を抱きしめて、涙というか汗というか、そこらへんの雫を垂らす。思いのほかおままごとに熱が入り、赤い日の光も相まって、顔に深い陰ができていた。 「貞子、あれをみてみな」  音の気配を感じ、後ろを振り返った。横たわった透明な容器に彼が持っていた棒が深々と突き刺さっていた。穴からほんの少し、ちょびちょびと水が流れ、床には小川ができあがっていた。  目を凝らしてみると、彼の角も刺さった形跡がある。 「お前の役に立てて、よかっ……た……」 「角おじさぁぁん!!!!」  ころんと手から溢れた頭は光を背けるように地面を転がった。後に残ったのは彼の残骸と、たれ流れる水だけ。惨事を引き起こしたが、結果として当初の目的を果たせた。  水の筋に手を突っ込む。想像していたよりも重たくのしかかり、びちびちと飛沫をあげる。ちょうどまた汗をかいていたところで、一刻も早く水を浴びたいと体がうずく。すーっと息を吸い込んで止める。  ほどほどに冷たい水が頭を押さえつける。泥臭さも鉄臭さもない、純粋な水に触れたのはいつだろうか。体をつたって指先から滴る。皮膚という皮膚が喉を鳴らして水を吸収する。 「気持ちいい」  まさに、文字どおり言葉が漏れ出た。肩を脱力させて、汗とともにいままでの疲れを洗い流す。  髪の毛を束ねてもみしだく。水を含んだそれは人ひとり分くらいありそうなほど重たかった。いくら土砂降りになっても、井戸の底でこんなになれることはなかった。雨とわかれば蓋をしていたのもあるが、向こうの世界はそうそう雨は降らない。ただただねっとりと湿っているいるだけ。  初めての感覚に心躍らせ、髪の毛だけ洗うのでは飽き足らなかった。服を脱ぎ、腕や脚など隅々まで水を流した。服の両端を握って背中に回し、ぎこぎこと左右に動かして背中の汗も綺麗にした。 「ふっふふっふふー」  知らぬ間に、知らない曲を鼻歌で歌う。水に当てられて体が冷えそうだったが、日の光が暖かくて、くるくると体の向きをしきりに変えていた。  体も服も満足するまで洗い終わったちょうどそのとき、水が出なくなった。両手で服を着たく絞ると、ぼたぼたっと水の塊が落ちてきた。濡れたままの体に、湿ったままの服を身につける。氷のような冷たさがひっついて身震いをする。肌の感触もいいものではなく、結局脱いで火の光が当たるところに置いた。 「しばらくしたらあったかくなるかもしれない。あとは体が拭けたらいいんだけど、なにかないかなぁ。髪の毛も絞っても絞っても水が出てくるし。うーん」  しばらく頭を揺らしててちてち歩き回った。そろそろ本格的に体が冷えてくると感じたころ、あるものを発見する。それは私が拠点にしていた布が入っている箱だ。色は違うが、上から白い布が飛び出している。  電球が頭にともった私は四枚の円盤のところへ向かった。二枚ずつ転がしながら運んでいき、箱の側面にぴたりとくっつけるように重ねる。四枚重なった円盤はちょうどいい足場となった。  ひょいっと箱によじ登り、白い布を一枚手繰り寄せる。今回は滑らず綺麗に抜き取ることができた。箱をあとにし、暖かい場所で体を拭いた。ときどき、白い布がぼろぼろと細かな粒にまとまり手足にひっついた。水が滴っていた髪の毛は複数の束になって黒い艶を出している。  そろそろころあいだろうと、床に置いた服に手を触れるとほんのり温かかった。首からスポンっと被ると、橙色の香りが胸に入ってきた。小さな粒が風船のように膨らんでパチンと割れて暖かな空気を撒き散らす。それを嗅いでいる私の顔は、自然とほころんでいた。  ぐっと背伸びをしてあたりを見渡す。まだ、この部屋は赤い光で包まれている。さっきよりもうんと赤い、果実のような真っ赤な光を浴びると真っ黒な影ができる。歩いても歩いても、影はついてくる。毛の生えた布も細かな影を携えている。  なかば崩れるように寝転ぶ。ここで初めて、体が疲労を訴えていたんだと感じた。すべてを解放し、ゆっくり瞼を閉じる。ここでは身を包める必要はない。四肢をおっぴろげて、あたかも住み慣れているように振る舞う。 「お師匠しゃま……」  小さな布玉が寝息を立てる。 「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」  絶叫は地面を揺らした。体は跳ね上がり、寝起きの頭を叩き起こす。状況を把握する余裕すらなく、続けざまにどたどたと床を突き破る足音が聞こえた。人間だ。人間が帰ってきたのだ。 “チャリーン”  布が入っている箱を蹴り飛ばし、近くに積んであった四枚の円盤も巻き込まれた。縦に長い箱と箱の隙間に吸い込まれていき、暗闇に姿を隠した。ほぼそれと同時、暗闇からカタンと物が倒れる音がした。不思議に思いつつ、泣き喚く人間をそっと陰に隠れて見守る。  人間は倒れた透明な容器の前にひざまずき、ばらばらになった彼を拾い上げる。水でびしょびしょになったそれをすべて手のひらに乗せると、隣の部屋に滑り込んでいった。顔までは見えなかったが、落ち着かない足元が彼の感情を表していた。 「角おじさん、捨てられるのかな」  頭が半分寝ているせいか、思っていた以上に気持ちのこもっていない言葉になった。人間は床に溢れた水を拭き取ると、向こうの部屋に引きこもってしまった。ぶつぶつとなにか聞こえるが、文字ひとつも聞き取ることはできなかった。  若干の静寂があたりに広がり、ようやく目が冴えてきた。さっきまでの赤い光から、今度は青白い光が部屋を真上から照らす。 “カタン”  縦長の箱のほうから音が聞こえてきた。つい先ほど耳に入ってきた物音と同じだった。なにかが倒れる音、滑り落ちる音、転がる音。断続的に効果音が流れてひとつの塊になる。  台の脚に身を隠して恐る恐るそちらを眺める。ちらと、箱が倒れる瞬間を目撃する。引き続き音が鳴り、目に見えないものを追いかけて左右にかぶりを振る。  しばらくして音はぴたりとやんだ。なにが起きたというわけじゃない。 「なんだったんだろう。私以外にだれかいるのかな……ん?」  四枚の円盤が吸い込まれていった場所からなにかやってくる。身の危険を感じ、体のほとんどを隠して、左目だけ外に出して注目する。暗闇からカラカラと軽い音を鳴らしてひとつの球体が転がってきた。  半分が無色で、もう半分は青色だった。光に照らされた半透明の球体は床に青い影をつくる。途中で曲がりくねることなく、まっすぐ私のところへやってきた。毛の生えた布の手前で止まり、ほんの少しくらっと揺れる。 「き、君はだれ……?」  返答はなかった。じっと見つめて、球体が微動だにしないことを確認すると、ゆっくり台の脚から手を剥がす。一歩踏み出しては止まって、踏み出しては止まってを繰り返す。両手は胸が飛び出さないようにきつく押さえ込んでいた。  手を伸ばせば触れられる距離にそれはいる。恐る恐る指で弾いてみる。もう一度。今度は手のひらを合わせてみる。ほんの少し触れただけでころっと動いた。球体を観察するように周りを歩いて、上から下まで舐め回す。透明なところと青いところ、それぞれ頭頂部に小さな穴が開いてある。色の境目がこの球体の境目になっているらしく、髪の毛数本ほどの隙間があった。  好奇心が体を動かし、球体をよじ登ってみることにした。しかし地面から足を離した瞬間くるっと回転して尻餅をつく。なんとか登れたとしても、またたくまに地面に吸い込まれる。 「丸いから全然登れない。よし、こうなったら……えい!」  勢いをつけて飛びつき、全身の力を使ってしがみついた。手足の先まで球体にくっつけて腹筋に力入れる。なんとか球体の上に乗れている状態。少しでも力を緩めたらころんといってしまう。  球体が変形する。それに気がついたのはこのあとすぐだった。 “カポッ”  球体は真っ二つに割れてしまった。透明と青色、ちょうど二色に分かれた。そのとき、床に落ちるはずだった私の体は青色の半球にすっぽりとおさまった。広すぎず、狭すぎず、軽く膝を曲げた体勢で落ち着いていた。起きあがろうとすると、動きに合わせてゆらゆらと揺れた。まるで揺り籠のようだった。 「なにこれ……びっくらこいた」  あまりにも居心地がよすぎて、元からこの場所で生まれて育ったのではと錯覚するほどだった。布の箱は柔らかくてそれはそれでよかったのだが、この球体はその硬さと包容力ゆえに安心感を全身で感じた。  むくっと起き上がり、もうひとつの透明なほうを手繰り寄せる。青いほうに身を置いたまま、頭頂部の穴に指を引っ掛けてふたつを合体させる。カチッと音を鳴らしてしっかりとはまった球体。その中に閉じ込められた私。  外界から音が遮断され、自分の呼吸が響く。透明で外の様子が見えるため、狭い空間のはずなの視界は広い感覚が真新しかった。どんな体勢をとっても、私が下になるように球体が転がる。鼓動に合わせてゆらゆらとわずかに揺れる。ふと懐かしさが込み上げてくる。 「お母さん……」  記憶の片隅の片隅、ほとんど覚えていない小さいころ、母親に抱っこされたことがある。それ以外の家族の思い出は一切ない。ひとり寂しく井戸の底にいるか、お師匠さまといるか、このふたつしかない。  左目からひと筋の涙が流れた。とても無意識に流れたせいで、手が濡れるまで気が付かなかった。親の記憶はほとんどないのに、なぜ涙が出るのだろうか。なぜ体の内側が熱くなるのだろうか。その理由を探せるほど、私は長く存在していない。  ぼーっと球体に反射して映る自分を眺めていると、真上から降っていた光が消え、周囲は暗闇に包まれた。かすかに光が漏れている場所があり、おそらく人間がいるところだと断定できる。 「今日はもう寝よう。というか、こっちでも寝てばっかりだなぁ。まあいいか。お師匠さまがよくいってた……寝る子は……育つ……てにぇ……」  大きなあくびをして、まぶたの力を緩める。無駄な力を一切なくして、球体に身を委ねる。寝てばかりの貞子。心霊というより、おとぎばなしのお姫さまというほうがしっくりくるかもしれない。  丸い容器に収まった貞子はどんな夢をみるのだろうか。
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