【第四回 引きこもりのひき子】

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【第四回 引きこもりのひき子】

 いままでで一番寝起きがよかった。やはり、この球体の中で休むのが私の体に合っているようだ。昨日久々に水を浴びたのもあいまって、頭が冴えているのが体感でわかる。  深呼吸をして、すべてを見通したような柔らかな表情で頷く。 「いや帰れよ私!!」  静寂を打ち破って自分自身に罵声をあびせる。荒ぶった声だが、頭は冷静だった。冷静だったゆえに見失っていたものを探せたのだ。  頭を掻きむしって、特に昨日のおこないを思い出してさらにきつく指先を立てる。 「確かに帰るために画面を探さないといけないし、そのために拠点とか欲しいなって思ったけど、まどろっこしいなおい!! 楽しくてついはしゃいじゃたし、ちょっとこの世界いなぁって思っちゃったよ! 今日こそ絶対に帰ってやる。そのまえに……ここどこぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」  泣き叫びは天を貫いた。  私が眠りにつくまえ、この球体に入ったのは台の下だった。毛の生えた布が敷いてあり、見渡せば縦に長い箱が陳列している。そんなところだったはず。  ぐらつく足元に注意して、壁に手をつきながら立ち上がる。正面も後ろも、右も左も真っ白だった。見上げると、井戸のような筒になっており、見覚えのある天井があった。筒というより、縦長の桶に近いだろう。  不安定な床の正体はあの柔らかい布だった。くるくるっと丸められ乱雑に敷き詰められている。それ以外にも透明な破片や色とりどりの小さな袋、四角い容器など、見たことないもので埋め尽くされていた。 「私が寝ている間になにが起きたんだろう。私の寝相が悪かったのかな。それともこの球体が勝手に動いたとか? どれもあんまりしっくりこないなぁ。それにしても、くちゃい……」  酸っぱいような、なまものが腐敗したようなにおいがほのかに漂う。井戸の底もコケやカビ臭さがこびれついていて、悪臭には慣れているつもりだった。いままで嗅いだことのないにおいに顔をしかめて、頭の中でぱちぱちと色がはぜる。  帰る以前にまずここから脱出しなければならない。試しに球体を押して転がしてみる。いたるところに段差があり、登れなかったり、急にがたんと落ちたりと肝を冷やすことが頻発した。  球体の中に入っているおかげで、自分の体が守られている。鋭利なものや落ちそうな穴があったとしても問題なく動ける。端が破られた黄色の袋のようなものが倒れてきた。 「香ばしいにおいがする。夜中に食べたくなるような悪魔的な感じ。いろんな香りがあるんだなぁ。もしかしてここってにおいを集めておく場所なのかな?」  球体の穴が自分の顔の位置にくるように微調整する。近くにあるものから手当たり次第ににおいを嗅ぎ始めた。  橙色の切れ端は柑橘系の甘酸っぱいにおいがした。細長い二本の棒からは動物的な香ばしさが漂ってきた。ほかにも、香りのないものや強烈な腐敗臭を放つ茶色のねばねばなどがあった。  鼻を酷使したせいで、ここのにおいに慣れてしまった。鼻の奥に多種多様のにおいが入り乱れて、むずがゆさにいらだちを感じ始めていた。 「おっといけない。また脱線するところだった。どうにかしてここから脱出しないと。ちょっと怖いけど、一回外に出て……ってあれ?」  球体を内側からペタペタと触る。特に色の境目を重点的に手のひらでさする。穴に手を突っ込んで、押したり引いたりして変化しないか試みる。それでも球体は分裂することなく形態を保ち続けた。  やけくそに殴ったり蹴ったり、引っ掻いたりしても、当然なにも変わらず体力だけ奪われていった。ボサボサになった髪の毛をそのままに、ぐてんと溶けるように倒れた。陰湿な雰囲気が広がり、井戸の底を彷彿させる。いまなら立派に貞子ができるかもしれないという思考が頭をかすめた。  右腕が穴に入ってしまい、起きあがろうとしたとき、右に体が崩れた。手の先に柔らかいあの布がかさかさと触れる。殻で守られていた分、それがなくなったような気がして身の毛がよだった。  すぐに手を引っ込めようとする。 「待てよ。もしかしたら……」  穴はそれぞれ、四つある。四角形の頂点を打ち抜いた位置に穴が開いている。透明なほうと青いほう、どちらも同じだった。  試しに左腕を突っ込んでみる。右手と同様に手先に感触がある。次は左足、右足と四肢をすべて穴に通した。足をばたつかせて動きを確認する。両手で近くのものを拾ってみる。 「これならいけるかもしれない」  穴に入れたまま、壁とめんと向かうように微調整する。壁は白い布で覆われており、鷲掴みにしても破れない強度があった。希望的な妄想が確信に変わった。  両手で布を掴みながら登っていく。右手を上へ動かし終わると、今度は右脚を少しずらす。次は左と、左右の手足を一本ずつ動かして、着実に上へ進んでいく。  球体の重さがじかにのしかかってくる。穴がきりきりと皮膚をこする。中盤で登ってきたころには赤く変色していた。それでもなお、上だけを見据えた。 ——腕が痛い。息苦しい。でも……。  汗で足が滑る。掴み損ねて冷や汗を垂らす。後ろに反り返りそうになり、慌てて布にへばりつく。危なっかしく体もひどく重たい。蜘蛛の糸を手繰り寄せている、そんな感覚に襲われた。  雑念が頭をよぎった。ぐっと唇を噛んで激しく左右に髪を揺らした。 「やってやるんだっ……!!」   一進一退を繰り返す。まるで進んでいる気がしないが、改めて見上げると、終わりが近いことに驚く。その事実が己を鼓舞させた。さきよりも確実に力強く布を握りしめた。  最後の最後はほとんど記憶がないほどがむしゃらに登っていた。雑に掴みかかり、穴が擦れて皮膚を切り裂くのも気に留めなかった。帰りたいという一心で、歯を食いしばる。 「よし、あともうちょっと……」 “ガサッ”  手を伸ばしたそのとき、視界がぐらついた。掴んでいた布はガサガサと耳障りな音を立てて大きく揺れた。拒絶されたような感覚とともに落ちていく。  そのとき目にしたのは、出口が閉ざされる瞬間だった。 「そんな! あとちょっとだったのに!!」  叫びも虚しく、地面に叩きつけられた。続けざまに、内臓が上に持ち上がる。どうやら布に包まれてどこかに運ばれているらしい。ゆさゆさと揺れ、ぎゅうぎゅう詰めにされる。  最後に大きく振動して、静まり返った。球体の中に早鐘を打つ音が響く。しきりに目を動かし状況を確認する。いくら考えても答えは出ず、やがて思考するのでさえ混乱のせいでおっくうになる。 「どうしようどうしようどうしよう。えぇもうやだ……。あれ……あれれれ??」  泣きっ面に蜂だった。穴に突っ込んだ両手両足が抜けなくなっていたのだ。押しても引いても血がにじむだけで、焦りが冷や汗となり球体の中に滴り落ちる。  登るときにほとんどの体力を使ってしまい、なすすべなく逆さまのまま拘束されていた。手首がいつ取れてしまうのか、もうすぐなのではないか、ひとつの不安が数多の不安を引き連れてくる。  「お師匠さま……お師匠さまぁぁぁあ!! うわぁぁぁぁぁぁん!!」  たがが外れてべそをかく。滝のように流れる涙は球体に溜まっては、穴からぽたぽたと流れ落ちていく。自分の声が内側に反響して自分に返ってくる。それがますます惨めを叩きつけるのであった。  帰れない、出れない、外れない、なにもできない。昨日、大量の水を浴びたはずなのに干からびそうな自分がいた。このまま、ここで、立派な貞子になれずに消滅してしまうのだろうか。 「あーもう!! びーびーうるさいわね!!」  号泣を切るように、鋭い声が飛んできた。自分の声じゃない。あきらかに他人の声だった。久々に聴いた自分以外の声にびくりと体をちぢこませる。  がたんと揺れたかと思った瞬間、声の主が私を見下ろしていた。緑色の大きめな上着、顎の高さで切りそろえた茶色の髪の毛、釣り上がった目尻。上着のポケットに手を突っ込んで、球体にひと蹴りいれていた。 「なーにしてんの」 「え、あ、あの……」  声をかけられて、いまさら気づいた事実があった。お師匠さま以外の人と言葉を交わしたことがないということに。年の近い子どころか、家族でさえまともに声を覚えていないのである。  普段ひとりごとはべらべらとしゃべれるのに、いまはそれができない。固い塊が喉に詰まり、言葉をせきとめて空気だけを通す。じっと見つめてくる彼女に目も向けれず、溺れたように目を泳がす。  このままでは呼吸すらやり方を忘れてしまいそうで、頭が複数の司令を同時に出す。処理などできるはずもなく、ただただ泣くことに体力を使った。 「なーに言ってるかさっぱりわからないわ。とりあえずそこから出すわよ」  彼女は球体を私もろとも回転させ、色の境目を上に持ってきた。両手を重ねて肘を張り、すーっと息を吸って力一杯押し込んだ。 “カパッ”  球体はいとも簡単に分裂した。外気に触れるのが久々で、汗をかいていたんだなと冷えた肌で知らされた。といっても閉ざされた空間にいることに変わりなく、依然としてにおいは漂っていた。  続けて、彼女ははまった手足をぐっと押して外してくれた。手首をくるっと回し、弧の形に赤くなっている腕をささる。自由になったことの感動が先走り、お礼を言うのを忘れていた。 「あ、ありがとう」 「ふん、別に感謝される覚えはないわ。うるさかったからしたまでよ。で、あんた名前は?」 「さ、貞子」  彼女は眉をぴくっとあげて、少しまのぬけたような表情をした。 「貞子って、あの貞子? テレビから出てくる」  大きく頭を縦に振って返事をした。  まるで会話が成り立っているみたいで、初めての感覚に心をざわつかせる。彼女の身なり、声、髪型、目の前のものすべて未知に包まれている。それでも繋がっていると感じたのは勘違いではない。  勇気を振り絞って声を出してみた。おどおどと名前を聞くと、彼女は胸を張って答えた。 「ひき子よ。あたしもあんたに聞きたいこといっぱいあるけど、まずはここから出るのが先ね」  ひき子は周りの布やら容器を押しのけて、なにやら探しているようだった。ちょんと上に持ち上げれば別のところからものがなだれ込む。引っ張れば上に重なったものが落ちてくる。ここが不安定な場所なのもそうだが、彼女のがさつな動作が一番の原因だった。  彼女は甲高い声を出した。どうやら目当てのものが見つかったらしい。引っ張り出そうと、腰を深く下げた。やはりどっからどうみても、私と似たような体をしている。そんな存在がいたんだと、ひとり感嘆の息を漏らす。 「ちょっとなにぼさっとしてんのよ! あんたも手伝いなさい」 「あっ……う、うん、ごめん」  はっと体を震わせて彼女のもとへむかう。彼女が指し示す方向には細い木の棒があった。足場の悪いなか、せえので声を合わせて引っ張る。  なかなか抜けない木の棒。この狭い空間では引き出すのに限度があった。たびたび後ろにひっかかって、煩わしそうにひきこがはらい落としていた。 「だいたいこんなもんでいいかな。貞子、あんたそっち側から押しなさい。負けんじゃないわよ」  棒の先端をひき子が、中腹らへんを私が、それぞれ反対方向に押す。私は支えるので精一杯で、主にひき子が一歩ずつ前進していった。  徐々に木の棒は湾曲していき、みしみしと音が鳴り始めた。大丈夫なのかと心配になり、ひき子のほうをちらりと見やる。歩く足を止めず、それでもなお、体全体を使って棒を押していた。  やがて耐えきれなくなった木の棒はバキッと破裂音を飛ばして折れてしまった。目を落とす私にはんして、ひき子は満足げによしと声を漏らした。 「あとは……えっと、こっちか」  軽々と折れた棒を持ち上げると、またもがさつに振り回して方向転換した。危うく私にもぶつかりそうになり、とっさに頭を抱えてその場にしゃがんだ。  棒の太さは腕よりも太く、折れた先端は髪の毛よりも細く尖っていた。直接触れていないのに、近くにいるだけで皮膚がこわばっているのがわかった。  そんなことなどつゆしらぬ顔でひき子は私の名前を呼んだ。 「いい? あそこにこの割り箸をぶっさすの」 「わりばし??」 「たぶんビニールくらいなら貫通するでしょ。無理でもあたしが無理やりこじ開けてやるわ。準備は良い? せーの!!」  掛け声に慌てて木の棒を握った。ほとんど置いていかれ気味に、引きずられ気味に前に突進した。棒の先端が白い布を貫通し、それを皮切りに穴は存外あっけなく広がっていった。  ひき子は棒から手を離した。ガクンとすべての重みが腕にのしかかりこぼしてしまう。肩が外れそうで、じんじんと痛みが走った。あまりにひき子が軽々と待っていたので、油断してしまった。  破れた布に駆け寄るひき子の背中を眺める。両手を使って、内から外に向けて引き裂いた。ねっとり裂けた線がまっすぐ上空へ駆け上る。  大きく開いた穴からけたたましい光が飛んで入る。たまらず腕で目を覆った。遠巻きに見えるひき子の背中は逆光で黒黒と輝いていた。まるで神様のようだった。 「ほらいくよ、貞子」  掛け声に反応して、光を目印に前へ進む。布から外は見覚えのある人間の部屋だった。まさに新鮮な空気、それを認識したのはこのときだった。鼻が慣れていたんだなと懐かしく感じるのも。  私たち以外にも中に詰まっていた布やら容器やらが穴から漏れたり顔を出したりしている。ここにいると改めて鼻が曲がりそうだった。  背伸びをしたひき子はまるで初めてのように部屋を一望する。彼女の瞳の片隅に私が映った。ふたつに分かれた球体を右手と左手それぞれで握り引きずっている姿が。 「ちょっと、なんでそんなゴミ持ってきてんのよ」 「だってこれ心地いいんだもん……」  鋭い目線を向けられ、眉間にしわを寄せたと思えば大きくため息をついた。尖った言葉や視線がいちいち刺さり、心臓をぎゅっと締めつける。  人間がいないことを確認し、開けた場所に移動する。ちょうどテレビの前、毛の生えた布が敷いてある場所に腰を下ろした。いまは暖かい光がさしていて、部屋のそこらじゅうが鮮やかな色を出していた。  光のもとで改めてひきこの全身を拝んだ。つま先から頭のてっぺんまで舐めるように首を動かす。私のぼろぼろでくすんだ服とは大違いだった。脚の輪郭が浮き出ている黒い青色のずぼん、綺麗な白い服、それの上から覆いはおっている干し草のような緑色の上着。両方の手を上着のポケットに突っ込んで、また私を見下ろしている。 「な、なによ。じろじろ見つめて」 「緑のそれ、見たことないなぁって」 「ん? フライトジャケットのこと? いいでしょこれ。結構いい値段したのよ」  手を入れたまま、自慢するように左右に体を捻って、お気に入りのところを見せつけた。この模様がどうの、ここの形がどうの言われたが、その大半は聞いたこともない単語だらけで、同じ言語を話しているのかと疑問に思った。ついでになぜ上着の前を閉じないのか聞こうと思ったが、彼女を逆撫でしそうで思い止まった。  むくっと立ち上がり彼女のそばへ行く。手のひらを頭にのせて、高さを変えずに真っ直ぐ水平方向に動かした。手のひらはぶつかることもからぶることなく、 彼女のちょうど頭に乗った。 「同じ身長だぁ」 「え、まさか私……こんなちんちくりんと同じ二頭身なの……。まあいいわ。それより、あんた貞子なんでしょ。なんでゴミ箱なんかに入っていたのよ」  気がかりな言葉が聞こえたような気がするが、いまは流すことにした。ここにくるまえ、井戸の外で起きた出来事から球体を見つけたところまで順を追って説明した。  ときどき話が脱線してしまい、その都度ひき子に手綱を引かれる。この短時間でため息を何度つかれたことか。しかし、話半分で聞いている様子はなく、むしろ言の葉を一枚ずつ拾ってくれた。  話し終えるとひき子は腕組みをして、喉を鳴らした。 「なるほどねぇ……。もしかしてそれ、“スマートウォッチ”じゃない?」 「すまーとおっち?」 「ウォッチよ、ウォッチ。人間が手首に巻いている最新の腕時計よ」 「うでどけい?」 「もお!!」  ひき子は無知な私に身振り手振りを使って説明してくれた。呆れられているのは十分に伝わり、仕方がないとどこかで思いつつ、申し訳なさを一生懸命話を聞く態度で表した。  ひととおり説明が終わり、おぼろげに形がうかぶ。これが、私が探していた帰るための画面なのだ。闇雲が突然晴れたような感覚が体の中心から湧き上がってきた。鳥肌が立ち、心臓がざわめく。標的があるとないで、これほどまで違うのかと自分でも驚く。 「そうだ……」  ひき子の手を取り、左右を中央で合わせる。無言でぶんぶんと上下に振ると、案の定「どうしたのよ」と困惑の声を漏らす。  今度は自分から彼女の目を見つめて、はっきりと言葉にする。小っ恥ずかしさに早鐘を打っているのか、それとも好奇心がそうさせているのか。いま声を出してしまったら震えてまともに伝わらないかもしれない。  息を吸う。唇をかむ。唾を飲む。言の葉を……渡す。 「私と一緒に探してくれませんか!」  生まれて初めての出来事が連鎖する今日。私は大きく一歩踏み出した。ぎゅっと手を握りしめて決意を表す。 「え、あ、ちょっと……」 「いいの! ありがとうぉぉ」 「言ってないわよ!!」  手を離して、目から滴る涙を服のすそで拭き取る。ごわごわした布が薄いまぶたを赤く変色させる。両手を組んで、明後日の方角を拝んだ。 「お師匠さまぁ、仲間ができましたよぉぉぉ!」 「だから違うってば!!」  迷子の貞子の旅路に、にぎやかな仲間が加わった。ほとんど無謀な挑戦だったのが、彼女が現れたことによりひと筋の光がさした。可能性が見えてきたことで、一刻も早く井戸の底に帰りたいと強く思った。  うれし涙を流す私の隣で、ひき子はびーびーわめいている。彼女はいったい何者なのか、その疑問は明日に持ち越すことにしよう。焦る必要はなにもないのだから。
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