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【第五回 忍び寄る気配】
球体の中は実に気持ちがいい。母親のお腹の中にいるような感覚に体はとろけて型にはまる。そのまま起きてもいいし、もう一度眠りに落ちても悪くなさそう。
「ちょっと、いつまで寝てるのよ」
コンコンと指の関節で打ちつけ、朝にしてはにぎやかな声が響き渡る。彼女の名前はひきこ。昨日知り合った歳の近い女の子だ。
輪郭のはっきりしない挨拶をして背伸びをする。彼女はこの球体のことをカプセルとよんでいた。カプセルの継ぎ目にある四角く切り取られた穴に手を入れて、それぞれ前後に力を込める。かぽっと間抜けな音をたてて、カプセルは外れた。中にいてもひとりで開けれるように、ひき子が小細工をしてくれたのだ。
揺らぐカプセルからまたぎ出て、とろんと溶けた顔でひき子を見つめる。言葉を発するたびにあくびも一緒に出てくる。
「まったくだらしないわね。だれのために早起きしたと思ってんのよ。ほら、早くしないと人間いなくなっちゃうわよ」
彼女はなかば私を置いて歩き出した。その背中を追う形で足をととんと刻む。目の先には光の絨毯がひかれている。人間に気づかれなくてカプセルも入る場所、彼女はベッドの下と言っていた。
近くに人間の足が見える。ひき子は相変わらず上着に手を入れて、まるで自分の家かのように堂々と歩いていく。人間にばれないように、ベッドの脚に身を隠す。慎重に様子をうかがうひき子の下、しゃがんでひょこっと顔を出した。目線の先は人間だった。
「あれが人間よ。腕には……まだつけていないみたいね。あんたが探しているのがスマートウォッチなら、人間を観察してればお目にかかれる」
人間は行ったり来たりと忙しなく動いていた。それ以降口を開かないひき子との間がもたなくて、ちらちらとひき子と人間を交互に見ていた。
いまのところ、お目当てのものは視界に映っていない。足が痺れてきて、じっとしているのがだんだん嫌になった。相変わらずなにもしゃべらないひき子。私は立ち上がって腰を伸ばした。ちょうどそのときだった。
「貞子、あれ」
ひき子が肘で教えてくれると、さらに陰に身を隠した。頬をくっつけて、私のためにまっすぐ指をさしてくれた。自分の吐息がかかりそうで、恥ずかしくて照れくさくて心臓がせわしなかった。
淡麗な顔をぼーっと見つめていたとき、彼女と目が合った。反射的に視線をずらして、ちゃんと人間を観察している私を装った。ほんの数秒の間があってからひき子は口を開いた。
「左手首についているのがスマートウォッチ。見える?」
「うん、ひき子が教えてくれたとおり、四角いね。あれが本当に画面の役割をしてるの?」
「そう。そしてそのスマートウォッチは普段あそこに置いているらしいわ」
彼女が見つめる先には巨大な建造物があった。下からあ半分は空間が広がっており、おそらく上を支えるための脚が生えていた。見上げるように首を折り曲げているためその詳細まではわからない。ただ言えることは、その上は色鮮やかで大小さまざまな物体が置いてあるということ。
人間は例のガチャンという音をたてていなくなった。隠れる必要のなくなった私たちはスマートウォッチが置かれていたであろう場所に向かった。改めて近くで見るとその巨大さと重々しい雰囲気に圧倒される。半口を開いていると魂まで抜けていきそうだった。
「人間が使っている机ね。案外立派じゃない。お高そうなゲーミングチェアまである」
「げーみんぐちあ?」
目線を一点に絞って机の足に近づく。片手でコンコンと叩いてみたり、飛びついてみたり、品定めをしていた。ひとまず遠巻きに見て彼女の行動の意図を考えていた。
ひととおりやることを終えたのか、ひき子がため息混じりに戻ってきた。
「上まで登っていくのは無理ね。仮にいけたとしても、机が鼠返しみたいになっているし、どっちみち厳しいわ」
「そんな……」
「あんた諦めんの早すぎ。机の脚は無理でも、横にある引き出しからなら可能性はあるわ」
そういって親指で指し示したのは縦に長い木の箱だった。机に隣接する形で配置されたそれには二本の横線が刻まれ、三つの段階をつくっていた。上ふたつが同じ大きさで、下は全体の約半分を占めている。
ひき子についていき、引き出しを実際に触ってみる。側面は完全な一枚の板で、木というより磨かれた石のようにすべすべだった。ひき子が言っていたのはまさにこの場所だった。私が帰るための道のひとつがここにそびえ立っている。
「ここを乗り越えた先に、お師匠さまが待っている。ひき子! どうやって登るの!」
「知らん」
「えぇぇぇ!!??」
表情ひとつ変えずに、りんごが地面に落ちることかのようにすんなりと答えた。ひき子は踵を返して歩き始めた。
「とりあえずこの部屋を探してみるしかないわ。ここにいても暇だし、なにかヒントがあるかもしれないしね」
また置いてけぼりになりそうで、声をかけるのを途中でやめて足を動かした。なにかヒントがあると言った彼女だが、果たして本当に見つかるのだろうか。半ば疑念を持ち合わせているが、自分ではどうしようもないことも理解している。
小さな二頭身がすでに豆粒になっている。考えるのは後にして、頭を振り、彼女の背中を追った。
テレビがある部屋は広々としており、さっきひき子が言った言葉が頭に残っているせいで、騒がしく物が浮き出てる気がした。意識していなくても、あの壁を登るための道具を目で追っている。
ひき子も、頭を上下に動かしながら、てちてちと歩き回っている。
「ひき子、なにかいいのあった?」
「全然ないわ。物だらけで汚い部屋なのにこれっぽっちも見つからないなんて」
はーっとため息をつくと、近くに落ちていたゴミをひょいと持ち上げて、弧を描くように投げた。私もやってみようと、同じものが落ちていたので持ち上げてみた。ゴミは弧を描くどころかその場にぽとりと落ちただけだった。
足元のゴミを見つめている間、ひき子は一点を見つめていた。二枚の仕切り板がある縦に長い箱の一番上、下からでは様子がうかがえない場所を目でさしていた。
横には頂上から垂れてある紐らしきものが姿を表していた。
「貞子、あんたこれ登れる?」
試しに紐を握ってみたが、配線よりもかなり細くて柔らかく、力が全然入らなかった。少し登れたと思ってもするすると落ちてしまった。
またため息をつかれると思った。しかし、ひき子は「大丈夫よ」と不意打ちの優しさをみせた。
「縫い糸だから無理もないわよ。あたしが先に登るから、その間に体をこの紐で縛って。合図したら引っ張り上げるから」
返事を聞くままなく、ひき子は両手を使って登っていった。落ちないように、一度手首を返して糸を巻き取り、登っては巻き取りを繰り返していた。
足は一切使わず、腕の力だけで登っていく。危うさなど微塵も感じさせず、地面を歩くのとなんら変わらなかった。
その姿に見惚れて体に紐を巻くのを忘れていた。このときすでにひき子は上まで到達しており、私に声をかけていた。慌てて体に紐をまわして固く締める。これで合っているか心配だったが、大きく手を振って彼女に合図した。
ゆっくり上がっていく体に好奇と不安が入り乱れる。人力にもかかわらず、がたんがたんと揺れることなく、すーっと登っていった。
頂上につき、ひき子が手を貸してくれる。さすがに疲れていたようで、息が上がっていた。
「ありがとうひき子。すごい力持ちなんだね」
「はぁはぁ……女子に、それは、褒め言葉じゃないわよ。てか、ちょっと休憩……」
途切れ途切れの文章を渡して、天を仰ぐように背中をぺたりとつけて大の字に寝そべった。胸が大きく上下していた。
紐を解こうとするが、強く縛りすぎてびくともしなかった。仕方なく、体をくねらせ、お腹をひっこめてそのまま外した。紐の残骸をぽいして低く唸っているひき子のもとへ歩み寄った。
「大丈夫?」
「う、うん。ちょっと運動不足が出ただけよ……よいしょっと。さーて、探しますか」
頂上は存外にものがごちゃついており、箱やかご、筒状の容器など、探すのには十分な場所だった。手始めに近くのかごへよじ登り、中に置いてあるものを物色する。
紐が垂れていたのはここかららしい。白、赤、黒の三色の紐があり、白い板にぐるぐる巻きにされていた。手に持ってみたが、まとまっているとそこそこの重さがあり、この紐でどう登るか検討がたたず、もとの位置にそっと戻した。
「ねぇひき子、聞いてもいい?」
「なによ」
「ひき子は何者なの?」
彼女は箱を持ってその場におき、中を開けて確認し始めた。目線はそのままに言葉だけを返してくる。
「あんたってほんとなんにも知らないのね。子どもを肉塊になるまで引きずり回す、ひき子。あんたと同じ心霊よ」
「心霊……。じゃあどうしてこんなところにいるの?」
パタンと大きな音をたてて蓋を閉め、ため息混じりに腰を伸ばした。歩きながら目ぼしいものがないか探しているさなか、「どうしてか、ねぇ」とひとりぶつぶつ呟いていた。
意識の半分を彼女にさき、私も適当にものを漁る。先端が赤く尖っている棒を持ち上げる。赤くなっている部分に触ってみると、手のひらに赤い粉が付着した。服を触るわけにもいかず、近くに畳まれていた大きな布で手を擦る。
ちょうどそのとき、隣で大きな物音がした。はっと振り返ってみると、ひき子が尻餅をついていた。周りには崩れたと思われる小物たちが散乱していた。
「大丈夫!?」
うつむきがちな彼女は諦めたように座り直した。
「家出よ」
「え?」
とても小さな声だった。呟いていた声とさほど変わらなかった。
そばに転がっている球体を手のひらでいじくりまわす。中心を貫くように穴が開いており、手を突っ込んだり、上に投げてみたりしていた。会話が始まってもなお、一瞬たりとも目線は合わなかった。
「パパもママもうるさいのよ。立派なひき子になれって。もーだるいじゃん! 面倒じゃん! あたしはぬくぬく自分の部屋に閉じこもってネットを謳歌していたいのにさ!」
「あーなるほど、だから“ひき子”なのね」
「違うわ!」
座面に叩きつけた球体をさらに足で蹴っ飛ばす。
「あーあ! 保育士になってイケメンパパと不倫してぇぇぇぇ!!!」
生まれて初めて、自分を見ている気分になった。ひとりでいるとき、感情に任せてわなないている自分にそっくりだった。とてもとても、開放的だった。
彼女の意外な一面が露わになり、言葉を失う。沈黙がより一層気まずさをかもしだす。体を動かす機会を失いそうで、早々に別な場所へ移動しようとした。
「あ、そうだわ……」
唐突に服を引っ張られ、前に歩む体はぐんっと止まる。振り向いても握った手ははなさなかった。にたりと小悪魔な笑顔を私に向け、顔をぐっと近づける。
握った手を今度は肩にぽんと置いた。手のひらから伝わる熱が異様に熱く感じられた。
「私も連れてってよ。あんたの世界に」
ふーっとかすかな風が吹き、髪の毛をさらった。この刹那に思考を巡らせ、話を飲み込む。それでも脳は理解に苦しんだ。
「え?」
「井戸の底よ。どうせ行くあてなんかないし、そっちのほうが面白そうだわ。そうよ、そうしましょ!」
加速する話に置いていかれる。まだなにも決まってすらいないのに、帰れる見込みもないのに、満開の笑顔を咲かせる。言葉をかけようにも届かない気がした。
かごの中に役立ちそうなものはなく、退散した。降りるまえに、ほかの場所を探索しようと頭を振ったそのとに、横目にちらりと輝くものが見えた。目を凝らして、歩み寄る。徐々に鮮明になる輪郭が記憶を震わせる。
あっと声を発して駆け出した。
「あれ、貞子どうしたの?」
「見て見て」
箱と箱の隙間に書かれていたのは例の円盤だった。四枚まとめて置いてあり、それぞれ表面に同じ数字が書かれていた。
ひき子に見せつけるように、ずるずると押していく。床を切りつける音がつーっと続き、暗闇からはいでる。光に照らされた円盤は煌々に輝き、目の中に飛び込んでくる。
一番上の円盤を持ち上げて、品定めするように眺めるひき子。もしかすると、彼女も見たことがないのかもしれない。そう思い、一枚円盤を立てて、鼻を高くした。
「これは世にも恐ろしい円盤、はまると帰って来れなくなるよ。ぐふふふ」
「へぇーこんなデザインだったんだ。百円玉」
手から離れた円盤はちゃりりんと地面を弾む。勝ち誇った優越感はかげろうのように一瞬で消えてなくなった。顎は大きく外れ、目は点になり、全身の筋肉はかちかちに固まっている。
ふらふらと体を揺らして、ことのありさまを話すと、噴水ように吹き出して嘲笑われた。冗談を言ったつもりはなくすべてが事実で、間接的に無知をばかにされた気分だった。
「これはお金っていうのよ。人間が物を買う……あー、物が欲しいときにこのお金と交換するのよ」
目に涙を浮かべて、息を整えながら説明してくれた。丁寧なのが余計に私の顔を赤らめさせた。
「じゃあこれ使ったらスマートウォッチ出てくるんじゃない?」
「いや、百円玉じゃ……」
「それっ!!」
背中を後ろにそって体重で四枚すべて持ち上げ、体を回転させながらななめ四十五度の角度で投げ捨てた。空中を舞う百円玉たちはきらりと光を反射させ、仲良く視界から消えた。
しばらくの静寂のあと、遠くからチャリンと音が聞こえた。スマートウォッチを待てども現れることなく、ただただ時間だけがすぎていった。
「お金はそう使うんじゃなくて……」
「出た」
私の傍に大きな球体が出現した。二色に分かれた半透明の球体。そう、カプセルだ。大きさや形は私が持っているのとまるっきり同じで、唯一違うのは緑色だということ。
やはりお金は投げて使うものらしい。人間の言葉でいう投げ銭はまさにこのことだろう。お目当てのスマートウォッチは出てこなかったが、お金本来の使い方を知り、ご満悦だった。頬をカプセルにくっつけて、表面のひんやりを堪能する。
「貞子……私の見間違いだったらごめん」
「んー? どうかしたぁ?」
気持ちのほとんどがカプセルに集中して、間延びした返事になった。周囲の状況も察することもなく。
「あんたの後ろにいるそれって……」
カプセルに頬を擦り付けたまま頭を回転させる。ちょうどすぐ真後ろ、頭ひとつ分先に、もうひとつの顔があった。鼻と口がとんがり、灰色の体毛と長い髭を生やしている。
ネズミだ。頭にたんこぶをつけたネズミがおいでなさった。
頭がそれを理解するまえに、叫び声を上げた。弾かれるようにひき子にすがりつき半べそをかく。普段は強気のひき子でさえガタガタと体を震わせている。お互い腕に力が入り、ただ抱きあってるだけなのに、心霊ひき子の能力があだとなる。
「ぐ、ぐるじいぃ……」
ほとんどもう、目ん玉が飛び出して口から泡をふいている。いまのひき子に言葉は通じない。ここで一生を終えるのかと、走馬灯の冒頭が上映されかかったとき、最後の抵抗で口の中に手を突っ込んでやった。
こもった声で唸るひき子。一瞬ゆるんだ腕を全力で引き剥がす。続けざまにボコボコと彼女の頭を殴る。正気に戻ってほしかった。そのためには手段を選んでられない。
「いたいいたいいたい! なにすんのよもう!!」
「落ち着いてって! ほら見て、ただのネズミだよ。井戸の底にいたやつよりもちょっと大きいけど」
「あたしたちが小さくなってんのよ! なんでネズミ平気なのよ。いや、こんな大きかったらだれでも怖いに決まってる!」
よしよしと頭を撫でて彼女を宥め、仕方なく行動に移す。ネズミを刺激しないようにゆっくり近づく。両手を前に突き出して、手になにも持っていないことを誇示する。
「よーしずーみん、いい子だぁ」
かつて井戸の底で一緒に遊んでいたネズミの名前で呼んでみる。危害を加えないことが通じたのか、ネズミはその場から動こうとせず、じっと私を見つめていた。
手を伸ばせば触れられる距離まで辿り着いた。ピクピクと動く鼻がやけに現実的すぎて、もとの大きさではわからなかった事実が露呈する。針のような薄汚れた体毛、裁断機のような前歯。ほんの少しだけ、ここにいることを後悔した。
遠くでひとり怯えている彼女を振り返る。右手をネズミに差し出して、目一杯の笑顔を作った。
「ほら大丈夫だよ。見てて。ずーみん、おて」
“かぷっ”
視界が急に暗くなった。粘り気のある液体が顔に塗りたくられる。一定の間隔で風が吹き、びちびちと液体が飛んでくる。生ごみを炎天下に放り出したような異臭が漂う。鼻をつまみたくとも、触れられなかった。
ひき子の悲鳴が貫通して響き渡る。ここで初めて、自分がかじられたことに気づいた。どうこうあらがおうとしたそのとき、体が激しく振り回された。ネズミが走っているのだ。
「ぎやゃゃゃゃゃゃゃゃ!!!!」
ひき子を追いかけて狭い空間を走り回る。たびたびものが倒れたり散乱する音がネズミ越しに届く。体の力が入らず、人形のようにくたびれて、されるがままに振り回された。
においと上下左右が混乱する動きのせいで、食道が酸っぱくなってきた。精一杯口を閉じて耐えている。耐えているが、いつまでもつか自分でもわからなかった。
そしてとうとう、堰堤が崩壊した。
“ブハッ!!”
ネズミも私を吐き出した。唾液まみれの私は情けなく地面に叩きつけられた。ひき子が手を貸してくれようとしてくれたが、触れるすんでで動きが止まった。鼻をつまんで二歩後退りをする。
見渡すと、箱やかごがひっくり返っていて、細々としたものが乱雑にばら撒かれていた。ネズミは正面からジリジリと私たちに近づいてくる。
「ぎやゃゃゃゃゃゃゃゃ!!! ちょっと離れなさいよ!!」
「ごわいもん!!」
すがろうとする私を足の裏で食い止めていた。ネズミは依然として近寄ってくる。大きな前歯をむぎ出しにして、私たちを追い詰めていた。ネズミが踏み出せば、私たちは後退する。それを繰り返していた。しかし限界がきた。
一歩でも下がれば真っ逆さまに落ちていく。背水に立たされた私たちは醜くも、自分のことしか考えていない。だれが犠牲になるか、他人を盾にしようと必死だった。
ネズミが大口を開けた。だれしもが諦めていた。視界の奥にあれが見えるまでは。
「カプセル……それよ!」
ひき子は私を踏みつけてネズミの股の下をくぐっていった。目の前の脅威よりも彼女へのいらだちが遥かにまさり、込み上げてくる怒気を動力に変換した。
ひと足遅くたどり着いたころには、ひき子がカプセルを閉じようとしていた。そうはさせまいと、境目に飛びつき、無理やり頭をねじ込ませた。
ネズミがどこまできているかわからない。いまはカプセルに非難することだけを考えていた。
「ちょっとやめなさいよ!」
「やだ!」
「閉まらないじゃない!」
「やだ!!」
水の掛け合い、手の出し合い。はなはだ知能の低いやりとりが繰り返される。合理的な思考などなく、カプセルの境目に無理やり片足を突っ込み、中に入りたい意思を告げる。
ネズミの吐息が体をさすり、火事場の力でようやくカプセルの中に入ることができた。カチッと音がなり、ネズミは手出しができなくなった。
ふたりはさすがに狭いらしく、少しでも動くと膝や足が当たる。それを避けようと動いても結果は同じで、負の連鎖が続いた。
がつんがつんと、ネズミの爪や牙が容赦なく襲いかかる。不安定な球体は遊ばれるようにコロコロと転がった。
「やばい……またきそう……」
「ちょっと!! こんなところで吐かないでよ!!」
手足に力を入れるとお腹に圧がかかり、戻してしまいそうになる。体をささえるのを諦め、両手で口元を押さえた。ゆらりがたがたとうねる球体は一瞬ぴたりと止まった。
縦に長い箱の、ふちだ。
「え……」
まるで時間がゆっくり流れるような感覚がした。内臓がぐっと上に持ち上がり、金縛りにあったまま、真っ逆さまに落ちていった。
ものにぶつかり、左右に弾き飛ばされる。転がっては落ちて、ぶつかっては落ちて。永遠とも思える時間が流れた。上下も左右も認識できず、物理に任せて落ちてゆく。
大きな衝撃とともに球体はふたつに分かれ、私たちは地面にへばりついた。視界がぐにゃぐにゃで自分がどこにいるのか、立っているのか座っているのかすらわからなかった。その光景が決め手となり、もう一度、今度はしっかりと胃の中のものを吐き出した。水でも布でもいいから、口を綺麗にしたいと切実に感じた。
ネズミはどこかへ消え去り、いつもどおりの部屋の静けさが耳に入ってきた。
「あんた……いい加減にしなさいよ……」
ひき子はふらふらっと立ち上がり、殺意のこもった鋭い目を私に向けた。なんとか彼女の姿を瞳に映すが、他人に構っていられるほど余裕はなく、意識のほとんどが自分に向けられていた。
ひきこがなにか言っている。それは半ば環境音にすぎず、耳から耳へ突き抜ける。肘がガクガク震え始め、肩に力が入らなくなっていた。息絶えるように倒れて横向きに寝そべる。顔にかかった髪の毛を払って深く呼吸する。
「なんでネズミを刺激したのよ! 考えれば襲われるってわかるでしょ!!」
「井戸の底だったら大丈夫だったもん」
「世界も大きさも違うだろ! 馬鹿か!」
何回か深呼吸をしているうちに、頭が鮮明になってきた。おかげで、いやそのせいでひき子が罵倒していることに気がついてしまった。
だんだんと眉間にしわがより、胃がむかむかするのも忘れて、拳を握りしめた。私が口を開いていない間、べらべらと永遠に文句を垂れ流している。言葉が少しずつ風船に溜まっていき大きく膨れ上がる。
「頭使えよ頭!」
少しずつ……。
「なんであんたのせいで怖い思いしないといけないのよ!」
溜まって……。
「だいたい、あんたって……」
大きく……。
「馬鹿でチビで頭お花畑の無能な貞子よね!!」
膨れ上がった。
「馬鹿馬鹿うるさい!! ひき子だってひき子だって……!!」
人生で一番大きな声が出た。
彼女に近づいて破裂した風船を態度に示す。悲しいときに流す涙とはひと味違い、しとしとなんて生優しい音は聞こえなかった。水の勢いが強すぎて容器から溢れるように、ドバッと漏れる。
「な、なによ。言ってみなさいよ!」
「ネズミごときにギャーギャー叫びすぎ! 耳痛い!!」
手足の先が痺れている。頭皮にかゆみが出てくる。逆立った髪の毛をかきむしり、頭に浮かんだ言葉をそのまま垂れ流す。感じるよりも早く口が開かれる。
時間が経ったんだなと、かげる体で理解する。ひき子の顔も完全に影に隠れていた。暗闇でもなお睨み続ける瞳はろうそくの残火のようだった。言葉ひとつで吹き消すことも、灯すこともたやすかった。
「あんたのために探し物してんのに、なんで逆ギレしてんのよ!!」
「ひき子が言葉選ばないからでしょ!!」
「選んでどうにかなるならそうしてるわよ! このあほ!!」
歯を食いしばり睨み合う。うなる喉はからからだった。血まじりのつばをのみこみ、言葉を探す。正直なところ、いまはもうそこで怒っていなかった。ただ、引き返すこともできず、必死で罵倒するしかなかった。
ひき子のせい、ネズミに襲われたのも、嫌な気持ちになるのも、全部ひき子のせい。そう思うようにした。
「もう! 貞子なんて知らない!! ひとりで探しなさいよ!」
「ひとりで探せるもん!」
ひき子は舌を出して右目のまぶたをぐっと下へさげた。それを最後に背中を向けて去っていった。呼吸が乱れていたことに、いまさら気がついた。
彼女を真似るように、くるっと反対方向に歩き始めた。ほんの少しだけ後ろ髪が引かれる。あんなに騒がしかったのに、いまでは自分の荒い息しか聞こえない。ふと何気なく後ろを振り向いた。そこにはだれの姿も見当たらなく、無機物な部屋がどこまでも広がっていた。
またひとりぼっち。私の心はひどくしぼんで見えた。
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