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【第六回 仲直り】
ベッドの下、カプセルの中で目覚める。どこかのだれか開けてくれた穴を使ってカプセルを開き、外に出る。人間の気配はない。いつもならべらべらと独り言を話す口も、今日はまだ寝たままだった。あまりの静けさに耳の奥が痛くなる。
体が自然と光を求めさまよいだす。その足取りは泥沼にいるように重たかった。
「なんだっけ……あ、そっか。帰らなきゃ」
精気はどこかに置いてきたらしく、髪の毛の先端は絡み合っていた。あくびのような、ため息のような、中途半端な音を喉から垂れ流す。ぼーっと歩いてはときおり、「あれ、あ、そっか」と頭の中で目的を浮き沈みさせる。
ひとまず昨日とはまた別な場所を探してみる。縦に長い箱の一番下の段、ものが密集しているところを散策する。厚みが均等の板が十数枚立てかけられている。その厚みの部分に、すべからく文字が書かれていた。
「異世界転生……? 魔法使いと……なんて読むんだ?」
同じ文章が刻まれているものもあれば、まったく違うものもある。難しい文字を使っていたり、見たことのない文字もある。近くに寄ってみると、一枚の板に見えていたのが、薄い板の集まりだと気づいた。それも板というより、表面がツルツルの布というほうが正しいだろう。
板と板の隙間をのぞいてみる。この奥にも似たようなものがあるようだ。一番はじにある板を観察する。表面には女の子の絵が描かれており、楽しそうに口を緩ませていた。髪が長いのと短いの、一瞬だけ既視感がかすめた。それを振り払うために、現に頭を揺らす。
「この裏はどうなってるんだろう」
左斜めになっていた板を右へ傾ける。と、板の重さが腕に伝わってきた。支えるなんてできるわけもなく、重力に任せて板は右に倒れた。仲間の姿を追うようにほかの板たちもパラパラと音を立てて倒れ重なった。
まるで板が倒れる様子をコマ撮りしたように、左から右へ徐々に寝そべっている。目でそれを舐めるように追っているうちに、あることをひらめいた。
「これ……上に登れるかも!」
板たちによってなだらかな坂になっており、二段目に届きそうだった。思い立ったが吉日、倒れた板の元へ向かい、うんしょっと両手を使って体をのせた。たどたどしく立ち上がり、一歩踏み出してみる。板はやはり弾力があり、踏みつけたところがわずかに沈んだ。
不安定な足場で二足歩行は保てず、手をついて四つん這いで進んでいった。慎重に、実に慎重に、一瞬も気を緩ませなかった。一番左側まで到達し、壁に手を当てながら立ち上がった。背伸びをしてもまだ届かず、心を決め飛ぶことにした。
手のひたでがっしりと掴み、よじ登る。意外に物事が潤滑に進んで、自分でも驚いていた。
「私ってば、やればできるんだ。さてと、なにか使えそうな道具はないかなぁ」
鼻歌が溢れ、重たかった足は軽快に動き出した。
二段目は一段目と大きく異なり、細々としたものが置いてあった。ざらざらした布や透明な器、強烈な異臭を放つ容器。かおりのどこかにほんのちょっと、あの角おじさんを感じた。においと形の統一感はなく、ガラクタのよせ集めみたいだった。
灰色の世界にひとつ、茶色の物体が静かに埃をかぶっていた。筒を輪切りにしたような円形の物体。私の身長二倍ほどの高さがあり、円周をぐるりとまわってみると、切れ目のようなものがあった。
「なんだろうこれ。剥がれるのかな」
試しに切れ目に指を立てる。ぺりっと音が鳴り、かすかに空間ができた。その空間を下に広げてみた。一番下まで到達すると、布のように薄い膜が現れた。さらに引っ張ってみるとぺりぺりと面積を広げていった。どうやら布が巻き付いてこの物体を形成しているらしい。
手を離そうとしたとき、布も一緒についてくる。振り回しても、反対の手で剥がそうとしても、どちらかの手にくっつく。蛇に噛まれたように、体全体で抵抗してようやく布が離れてくれた。
「びっくらこいたぁ……。裏側はベタベタしてるんだ。下手に触んないほうがいいかも」
記憶の片隅にこびりつき、背中がすっと冷たくなる。ここにいるのがなんだかまずい予感がして早々に退散した。
縦長の箱をあとにして、部屋の中を散策する。いままで行ったことのない場所をあらかた目安を立てて、周囲に目を配りながら進んでいく。どこにネズミがいるかもわからない。しかし動かなければ見つからないのも事実。
しばらく歩き続けると、ひんやりとした場所にたどり着いた。光が当たっていないからだろう。井戸の底から湿気をなくしたような冷たさが肌にまとう。ここで寝っ転がると、さぞ気持ちがいいことだろう。
「なんか空気もおいしく感じる……あれ?」
違和感を受け取り、確認のため、もう一度鼻を開いてみる。かすかにだが甘いかおりが漂っていた。鼻先を先頭に、においのもとを探る。右に左に、においが強くなる方向に進んでいく。
壁が近づいていき、部屋の隅にやってきた。においは過去一で強く流れていた。見上げると、見きれないほど背の高い箱が威厳を持って立っていた。その横、空いていた隙間にそのにおいのもとはあった。トンネルのような、先が見えない箱だった。入り口はとても広く、ネズミでも難なく通れそうだった。
好奇心に従って一歩踏み出す。それが大きな間違いだった。
「あれ……あれれ……」
足が動かなかった。何度動かそうとしても、地面にへばりついて取れなかった。箱の床全体がネバネバした物体で満たされていたのだ。それに気づかず、
においに誘われて、両足は完全にとらわれてしまった。
焦りが体を刺激してめちゃくちゃに踊らせる。次第に、倒れないように手を前後に振り回していた。
「やば……倒れる……!」
顔面に床が迫っていたそのとき、すんでで腕を掴まれぴたりと止まった。そのまま引っ張り上げ、自分の体は自立を取り戻した。振り向くとまた体勢が崩れそうで、なにもできずに突っ立っていた。
「相変わらず鈍臭いわね。引っ張るわよ」
聞き覚えのある声だった。
声の主はひょいっと私を持ち上げると、ネバネバにくっついた足が切り離された。数秒の浮遊を感じて、普通の地面に降ろされた。
「ひき子……」
上着に手を突っ込んで目を逸らしている。ちらちらとこちらを見ているにもかかわらず、口先をすぼめて黙っている。
まだ少しねばつく足を前に進ませる。彼女に近づくにつれて、心臓は早鐘を打つ。喉が詰まり、呼吸も浅くなる。どうかそのままで、離れないでそこにいてと願いながらゆっくり歩み寄る。
ひき子は間を取りつくろうように、雑に頭を掻きむしった。
「貞子……その……昨日は——」
「ごめん!!!」
腰を直角におり、頭を大きく下げた。かすかに震えている手をどうにかしようと、服のすそを握った。こうしなければならない、こうしたかった。その思いを言の葉にのせる。
「せっかく私のために手伝ってくれたのに、ひどいこと言ってごめん! 全部私が悪いの。許してほしいなんて言わないから、だから……」
喉に涙が詰まる。頭の中で何度も妄想していたのに、いざ現実になると、ひき子の姿が生々しく目に残る。やり直しの効かない会話で、はじめて言葉の重みを知る。
出しあぐねていると、「顔を上げて」と抑揚のない声が聞こえてきた。ぶたれるだろうか。罵倒されるだろうか。なにがきても受け入れるつもりで、おもむろに頭を上げた。
「いてっ」
こつんと頭になにかぶつかった。手で押さえて、目線を前に持ってくると、手のひらを垂直に立てたひき子がいた。なぜそんなイタズラをするのか皆目見当がつかず、首をこくりと傾ける。
ふーっとため息をつき、地面を見つめながら口を開いた。
「ごめん。あたしのほうがひどいこと言ってた。馬鹿とかアホとか。貞子が一生懸命どうにかしようとしてくれてたのに……どうかしてたわ」
思いがけない言葉に、二、三回まばたきをする。呆気にとられた声を漏らし、思考を巡らせる。何度も何度も、彼女の言葉を反芻して自分の言葉に置き換える。しかし、悪いのは私で、その言葉に脈略がなかった。
理解するのに時間がかかり、両手で頭を掻きむしる。
「え、ごめん、どゆこと?」
「だから!! あ……はぁ、こういうところよね……。つまり、昨日貞子に言ったことは別に本心じゃないの。ついかっとなって悪口言っちゃったの。だからごめんね。傷つけちゃって」
あんなに頼もしかったひき子の目には涙が浮かんでいた。その姿が痛々しく、居ても立っても居られなかった。弾かれたように駆け寄り、両腕を大きく開いて抱きついた。
頬を寄せ、あのときのひき子に負けない力で包み込んだ。お互いの涙が交わり、心が合わさる。私の思いが伝わったのか、片方の手を背中に、もう片方を頭に乗せた。綿毛を愛でるように頭を撫でてくれた。
「まったく、泣き虫なんだから」
「ひき子もでしょ」
ふふっと口角を緩める。私の額を彼女の額にぴたりとつけると、鼻の先がちょんと当たった。涙で赤らんだ目元を隠すようにまばたきをする。
「ありがとう」
「こちらこそ」
泣いているのか、笑っているのか。さっきまでのどろついた雰囲気がおかしくて、ため息をまじえて安堵する。
あらためてお互いの全身を見合う。足元にネバネバがついていたことを思い出す。それを話の種にして、たわいもない会話をする。なんだかそれがとても心地よかった。
「まさかこんなところで友達ができるなんて思わなかったわ」
「ともだち??」
知らない単語に目をぱちくりさせる。その様子を見てひき子は腹を抱えて笑った。馬鹿にされているのに、なぜか嫌な気持ちはしなかった。
笑いがおさまったころ、ひき子が説明してくれた。
「そうねぇ……一緒にいて楽しい人かな?」
「楽しい人……うん! 友達する!!」
両手を天に掲げて背中をぐーんっとそる。友達という言葉の響きが、頭で引っかかっていた糸を取ってくれた。私とひき子が仲直りできたのも、友達だからなんだろうと思った。
言葉を交えて、ころころと笑う。いまは帰ることを忘れて彼女の表情を見ていた。
「やっぱ馬鹿だなぁ貞子。さっきの言葉訂正しようかしら」
「あーひどーい」
薄く涼しさがとどまり、肌を優しく包み込む。白くて巨大な箱からはごーっと音が鳴っている。心が落ち着いたせいか、周囲の様子がよく入ってくる。水の流れる音がどこからかしていて、好奇心がくすぐられる。
ひき子とひと段落つき、この後どうするかと相談する。ここを探すか、いったん拠点に帰るか。ふたりして、くるっと天井の隅を舐めまわす。壁に引っ掛けてあるもの、立てかけてあるもの、大量の引き出し。
「んー、いまの私たちじゃあそこまでいけないね」
「そうね。足洗って、いったんベッド下に戻りましょ」
うんと頭を縦に振り、足並みを揃えて歩こうとしていた。
「……たぁすぁけぇてぇぇぇ!!」
「「え!?」」
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