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   知らなかったの? と志帆が変わらない表情で訊ねてきた。  そんなこと、知らない。 「拓真くん、就職できなかったじゃない? 渚さんと結婚して、お店を継ぐみたいだよ」  へえ、それはおめでたいね。  どうして志帆はそれを知ってるの?  訊ねようとする言葉が、泡の下から浮かんでくるようだった。 「驚いた?…… ちょっとトイレ行ってくるね?」  言葉が出てこない僕を、志帆が一瞥しているように感じた。  席を立った志帆の背が見える。  その腰元に、拓真の腕が見える気がした。 『渚さん、妊娠したのか?』  慌てて拓真にメッセージを送る。  数ヶ月ぶりの連絡だが、挨拶をしている余裕は無かった。既読の表示がすぐに付いて、拓真が返してきた。 『ああ。志帆ちゃんから聞いたのか?』 『そうだよ。何で言わなかったんだよ』 『おめでとうとか、言ってくれるわけ?』  少し悩んだ。  でも時間はなかった。 『そりゃそうだろ。おめでとう、って……言っていいんだよな』 『勿論だ。ありがとう。これで俺も父親だ』  息を飲む。  あの夜を思う。  初夢を見た、元日の夜を。 『拓真の子、なんだな?』 『当たり前だろ。怒るぞ。他に誰がいるってんだ』  あれは、  あれだけは、  僕だけが見た夢か。  狭いアパートに射し込む西陽も、  裏返った薄桃色のセーターも、  豆電球の光と共に漏れ出るものも、  苦いビールの泡の味も、  痛いほど  リアルに僕の脳裏にあるのに。 『悪い。そんなつもりじゃないんだ』 『渚は俺しか知らないんだ。愛し合ってるから子供が出来るんだよ』 『渚さんがそう言ってたのか?』  そのメッセージに既読が付いた時、志帆が席に戻ってきた。  色味の差した頬に乗る微笑みは、何となく初めて見た表情のような気がした。 『ああ。お前、入れてないんだろ』  志帆が座る刹那、新しいカクテルが運ばれてきた。二人で同じビールベースのものを頼んでいた。ジンジャーエールが好きな志帆の、シャンディガフ。  多めの泡がグラスの縁まで盛り上がっていて、僕がメッセージから目を離せなくなって志帆から受け取るのをまごついたから、志帆の人差し指に冷たい泡が溢れて乗った。 「あ、ごめん」  テーブルの真ん中に慌ててスマートフォンを置いて、志帆の指に触れないように両手でグラスを受け取る。 『柊、本当に入れてないんだよな』  画面に拓真のそんなポップアップが浮かび、  僕と、それから志帆の視線が  それを捉えた。  志帆は少しだけ目を細めて、  泡の乗った人差し指を舐める。  水泡にキスをした。   - 完 -  
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