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火因町は一見のどかな農村だった。
村は野菜畑ばかりで、村の中心に流れる川は魚が釣れるぐらい綺麗だ。夏は、時々川で子供達が遊んでいる。この川をずっと下っていくと首都・東京に行けるらしい。西洋文化を取り込み華やかな都だとは聞く。
私も両親が生きていた時は、東京のデパートで食事をしたり、綺麗な着物を買ってもらったり動物園にも行ったことはあるが、はるか遠い昔の事のように思えてならない。
距離的には東京と火因町はそんなに離れていないのかも知れないが、二度と行けない場所のように感じた。本当は近所のミッションスクールの進学の予定もあったが、両親の死でそれも駄目になってしまった。
しかし、嘆いても仕方がない。
太郎くんの事の方が心配である。私は川沿いの道を歩き、太郎くんの家の農家の近くまで歩く。
目を皿のようにして見ているが、太郎くんの姿はどこにもない。
もう空は薄暗い。
本当にどこにいったんだろう。子供がそう遠くまで足を運べるとは思えないのに。
まさか誘拐?
私はよく知らないが、新聞などでは誘拐事件も報道されている。誘拐された子供は人身売買されているという。その事を思うと心配である。
「太郎くんのお父さん、お母さん、こんばんわ」
太郎くんの両親に会った。二人ともなぜか私を見ると、ビクビクとしていた。何か違和感をもつ。
彼らの背後にある野菜畑は、あまり作物がなっていなかった。やはりこの長雨で不作な事は間違いないようである。
「太郎くん帰ってきました?」
私が言うと、なぜか太郎くんのお母さんがポロリと涙を流した。日に焼けたシミだらけの肌が涙で濡れた。
「あぁ、太郎が……」
「すみませんよ。志乃さん。妻はちょっと情緒不安定なんだ」
太郎くんの父親は、そう言ってそそくさと家の方に行ってしまった。
何か嫌な予感がする。あの二人の態度は、何かを隠しているようにも見えた。
脳裏にふと、この村に流れている噂を思い出す。龍神様の噂だ。
子供や若い娘を生贄として捧げると、龍神様が願いを叶えるというあの噂。
太郎くんは生贄になってしまったのだろうか。そう思うと居てもたってもいられなくなり、私はこの村の神社に走った。
龍神様が祀られているというこの村の神社は、鬱蒼とした森に囲まれていた。
見るだけで憂鬱になるぐらい暗い場所である。
「太郎くん? いる?」
私は大声で叫んで見たが、返事はなく木々のざわめきと烏の鳴き声、それと秋の虫の鳴き声しかしなかった。
ちょっと怖かったが、太郎くんが何か酷い目にあっていたら取り返しがつかない。
私は意を決して石畳の階段を登り、一応御手洗場で手を洗い、口の中を濯ぐ。滅多に神社に行くわけではないが、やはり神々しい何かを感じて無作法するのは怖い。着物の袖からハンカチーフを散り出して手の水滴を拭う。
レースがついたハンカチーフだ。母が生きていた頃、東京のデパートで買って貰ったものだ。私が持っているもので唯一華やかなもので、母の形見と言っても良いものだろう。
準備を終えた私は、くすんだ赤い色の鳥居をくぐる。強い風が吹き、一つに結んでいた私の髪の毛が解けてしまった。枯葉が舞い上がり、視界は少しぼやける。
人気がない。そういえばこの神社の神主や巫女の姿を見たことがない。
なぜか全身から現実感が消えてゆき、 参道をゆっくりと歩く。途中で絵馬が飾られている場所があったので見てみると、私は顔を顰めた。
そこには太郎くんの両親の絵馬ばかり飾ってある。「不作になりませんように」という願いばかりであるが、いくつも飾って不気味だった。
神様が実際に居るのか居ないのかはわからないが、こんな自分勝手な願いばかり書かれたら、願いを叶える方もしんどいのではないかと想像する。
この事と太郎くんの件は関係があるのだろうか。ただ、両親が神様に縋りたいほど悩んでいる事は事実だった。
「太郎くんいる?」
本堂に近づき再び叫んで見たが、何の返事もなかった。本堂に飾られたしめ縄が、蛇のように見えて不気味である。やっぱり神社は人が近づいてはいけないような何かを感じる。
「なに、これ……」
しかし、賽銭箱の上を見て凍りついた。一枚の紙があった。
そこには黒い墨でこう書かれていた。
「太郎はいただいた。お前のうちだけを豊作にしてやろうって……」
どういう事? イタズラ?
でもこの神社にこの紙があるというのは、やっぱり太郎くんは龍神様に生贄に捧げられてしまったのだろうか。
怖い。
恐怖で全身の血が凍りそうだったが、私は全身の力を振りしぼって太郎くんの名前を呼ぶ。
しかし、何の返事もない。
膝がガクガクとし、恐怖心で立っていられない。私は、太郎くんに悪いと思いながらも一目散に家に帰り、自分の部屋に引きこもった。
「気にいった。俺の花嫁」
どこからか、こんな男の声もしたが、幻聴かも知れない。もう一度よく聞こうとしたが、雨音に紛れて再び聞く事はできなかった。
とりあえず、命は助かったようでホッと胸を撫で下ろすが、次の日から事態は恐ろしい方へ転がり始めていた。
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