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生贄になる日が次の新月の夜に決まった。
絵里麻が調べた資料のよると、龍神様は月が苦手なようで、新月の日になると神社に降り立ちのだという。
非現実的で信じられない話ではるが、空に浮かぶ月はどんどん欠けてゆき、全く見えなくなってしまった。
毎夜降り続いていた雨だが、今日の新月の日はぴたりと止んでいた。
静かな夜だった。
女中部屋で私は白無垢を着せられ、化粧を施されていた。
奥様が支度を全部やってくれたわけだが、私はちっとも嬉しく無い。奥様の手つきは粗々しく、ずっと真野さんの悪口を言っていた。とはいえ、真野さんは隣町にある親戚の家で働く事が決まり、慌ただしく今朝出て行ってしまった。これも奥様の手配によるものだが、真野さんが幸せならそれでよかったのかもしれない。
死んだ父からは、見ず知らずのに人や意地悪な人にも親切にしなさいと言っていた。この国で認知され始めた耶蘇教、カタカナではキリスト教という宗教では「敵を愛しなさい」と言う。父は耶蘇教の信者でも関係者でもなかったが、翻訳の仕事をしていたから、色々と知識は豊富だった。耶蘇教の事はよくわからないが、敵を愛するなんて難しい。
今、目の前にいる奥様は確実に敵ではあるが、とても愛せそうにない。
「さあ、志乃。できましたよ」
奥様が化粧の筆をおき、花嫁姿に完成した。角隠しのおかげで、あまり鏡がよく見えないが、一見どこからどう見てもこれから嫁入りする花嫁だった。
「これで良いのかしら」
「私がやったんですから、良いに決まっているでしょう」
奥様はため息をつきがら言う。
「本当に龍神様なんているのかしらね」
「いるに決まってるわ」
そう言う奥様の横顔は、藁をも掴むように必死に見えた。確かに奥様の身の上を思えば、この状況はどうしようも無いのかもしれない。
「奥様、今までありがとうございます」
私は床におり、まるで土下座でもするように頭を下げた。
奥様の事は嫌いだし敵ではあるが、こうする事に至ってしまった経緯は理解できる。
「ちょ、なんなのよ、あんた」
「こんな風に嫁入りをするのは、不本意ではりますが……。真野さんをよろしくお願いします」
私は深々と頭を下げると、奥様は泣きそうに顔を歪めた。
「別に私は志乃の事は嫌いじゃない……」
そうは言っていたが、本当だろうか。まあ、今はその言葉を素直に受け取る事にした。
こうして奥様と一緒に途中まで神社に向かう。裾を引き摺らないように着物のつまを持って歩く。月が出ていない夜は、闇の中を手探りで歩いているようだった。
「じゃあね、志乃」
鳥居の前までくると、奥様と別れた。
一応神社の御手洗い所で口をゆすいで手も洗う。母の形見のハンカチーフだけはこっそりと持ってきたので、それで手を拭う。
遠くの方で、フクロウか何かの鳥の鳴き声はした。あまり美しい鳴き声でもなく、不気味なだけだった。
あとは木々のざわめきや風の音が少しするだけだった。ふと、私はこれから死ぬんじゃないかと思い始めた。結局太郎くんは帰ってこない。
龍神様が本当にいるかは定かでは無いが、この状況はどう考えても良いものではない。例え龍神様が現れなくても、鬼でも出てきて喰われそうである。
足元が崩れ落ちそうではあるが、ここから逃げるわけには行かない。
私はハンカチーフを丁寧にたたみ直すと胸元に隠し、本堂の方に向かった。
相変わらずしめ縄は蛇のような禍々しさを持っていた。賽銭箱の上はあの時と違い、何の紙も置いていなかった。
私は今は賽銭箱に入れるようなお金は持っていないわけだが、本堂に向かって目を閉じて、祈った。
心の中で唱える。
もし、神様がいるのなら。
太郎くんや真野さんを守ってください。
本当は自分の事を祈るべきだと思うが、全く別に事をま考えていた。
奥様や絵里麻も守ってください。酷い人達ですが、こうなってしまった事情もあります、と。
なんでこんな事を祈ったのかわからない。ただ、数日前の見たあの夢が気になった。ボロボロになり傷つけられたあの男の人。その人の事を考えると、自分の事を願う事は違う気がしてならない。
単なる夢の話だ。あの男の人も実際に存在しているのかもわからない。単なる私の妄想のようなものかも知れない。
ただ、あの男の人の事を思うと胸がギュッと押しつぶされたような痛みも感じる。それは、男の人が可哀想とか同情心ではなく、なぜか自分があの男の人を傷つけているような罪悪感のようなものも感じる。それなのに、あの夢を思うとなんとも言えない「愛情」のようなものに満たされたような不思議な感覚もする。
夢とはいえ、あの男の人は誰なんだろうか。
「私はすぐに来る」と言っていたが、いつ来られるのだろうか。気づくとまた泣いていた。
せっかく綺麗に化粧をしてもらったのにさっそく崩れている。それでもあの男の人の事を思うと、涙が止まらなかった。
「おい、娘よ」
気づくと目の前の紺色の紬の着物を着た男がいた。夢の中で見たあの男の人とは正反対と言ってよい雰囲気だった。
長身で顔立ちがかなり整っている。まるで絵画から抜け出てきたように綺麗な顔だった。歳は私より10歳ぐらい歳上の25、6歳ぐらいだったが、少し神々しいぐらの雰囲気を纏っていた。
髪の色も見たことのない色をしている。綺麗な透き通るような銀髪で、背中まで伸ばしている。一見女のようにも見えたが、体付きはどう考えても堂々とした男である。肩幅が広く、何か運動もしていると思われる。
すぐにこの男は普通の人間でないことに気づく。
というか本当に人間?
よく見ると瞳の色も透き通ったような琥珀色で、こんな目の人物は今まで見たことがない。
一言で言えば美男子であるが、近寄りがたい雰囲気もある。
私は思わず後ずさったが、背の高い男は、私の視線に合わせるかのように中腰になる。
至近距離で顔を覗かれ、私の頬は熱くなる。角隠しをかぶっていなかったら、赤面して死んでしまいそうである。
「あ、あなたが龍神様ですか?」
「そうだ」
龍神様は、歯を剥き出して笑顔になる。歯も絵に描いたように真っ直ぐに生えていて、綺麗だった。
「はじめまして。私の旦那様」
私はどうにか声を上げる。その瞬間、あの夢の中の男の人が泣きそうな顔を見せたが、もう何もかも遅かった。
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