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昔、死んだ父がよく言っていた。
「詐欺師は綺麗な衣を着ているんだよ。たぶん良い匂いもする。気をつけなさい」
父は心配症で、私が夕方まで遊んでいると、よく迎えにきた。父は翻訳家で家で仕事をしていたので、比較的子供の頃は一緒に過ごす時間も多かった気がする。
「何で詐欺師は、綺麗な格好するの? お父様」
「人間が愚かだからだよ。なんでも見た目だけで判断してしまう性質があるのさ」
その言葉はあまりピンとこなかった。なぜかこの父の言葉を思い出す。目の前にいる龍神様は、どこからどう見ても美しい男だった。
しかも私に微笑みながら接近してくるが、警戒心がスルスルと解けていた。
遠くの方からフクロウか何かの鳥の鳴き声が聞こえてくるが、私の目は龍神様に釘付けになっていた。
「待ってたよ、志乃。俺の花嫁。美しい花嫁」
龍神様は、そう言って私の手を取った。ほっそりとした綺麗な指先だった。美男子は細部まで美しいらしい。男性といえば父親と亡くなられた旦那様しか知らない私は、手を取られただけでドキドキと心臓が高鳴ってしまった。
なぜか龍神様は、私の手の力を込めて握っている。痛いほどではないが、強く温もりが伝わってくる。龍神様の手は、とても熱く感じた。
「さあ、志乃。辛かっただろう」
「え?」
「俺は見ていたよ。まあ、手下の霊を使役して見ていたが……。奥方や気の強い娘にいじめられていたんだろう?」
龍神様の声は温かく、うっかり気を許してしまいそうだった。
「可哀想な志乃。俺ならそんな目には合わせないのに」
龍神様は、さらに手を強く握る。さすがに少し痛いぐらいだったが、なぜか抵抗はできなかった。
「さあ、我々の家に行こうではないか」
「い、家?」
「そうだ、嫌かい?」
「私を殺すんじゃなくて?」
実を言うと、龍神様が私を殺すようには全く見えなかった。それどころか私は、なぜかこの男に信頼しはじめていた。
外見が美男子だからだろうか。今までの身の上を労ってくれたからだろうか。ただ、龍神様からは目が離せない何かがあった。
「バカだな、志乃。あれは村人が勝手に噂をしているだけで、俺は人を殺さないよ」
龍神様はさらに私に近づく。何か香の良い匂いがし、夢でも見ているような気分になる。身体中から緊張感の様なものが抜け落ち、ふわふわとした感覚ばかりが襲ってくる。
「本当? 太郎くんは知らないの?」
「は? 太郎くん?」
龍神様は、一瞬とても嫌そうな顔を見せた。虫でも見るかのような表情だった。一秒にも満たないような一瞬の出来事で、勘違いだったかもしれない。
龍神様はすぐに笑顔を作って言う。
「俺は太郎くんなんて聞いたことないな」
「この村で行方不明になった5歳ぐらいの男の子なのよ。何か心当たりは無い?」
「そうだな、無い」
ハッキリと断言されてしまった。
「まあ、このあたりには変出者がいると聞く。実は志乃を狙っている不道徳な男もいたんだ」
「うそ」
私の顔は青ざめていたと思う。
「どこだったが、亜傘の家の息子かな」
亜傘はこの村の農家の一つである。確かあの地震の日に亜傘の息子が家具の下敷きになって死んだと聞いたが。
「だから、俺が地震起こしてあいつを殺した」
「えぇ?」
とんでもない事だ。すぐには理解が追いつかず、私は目を白黒させるばかりだ。
「いいから、志乃。俺を頼れよ」
驚いている私を無視し、なんと龍神様は私を担ぐあげてしまった。
まるで物語に出てくるお姫様のような体制になってしまい、私がジタバタとみっともなく暴れてしまう。
「お、下ろして。重いから!」
「嫌だ。志乃は俺の花嫁なんだから」
龍神様は子供っぽく口を尖らせる。その表情は、人間らしくて私は少し笑ってしまった。大人しく抵抗せず、龍神様のされるがままにした。龍神様の着物から何か良い匂いが漂い、私の思考力はほとんど抜けかけていた。
龍神様は私を抱いたまま、神社の本堂に入っていく。龍神様は土足であったが、そんな事は全く気にしていないようだった。
はじめて見る本堂の中は、奇妙な光景が広がっていた。なぜか人の形をかたどった木の彫り物がいっぱい並べられている。奇妙な光景で思わず龍神様の着物にしがみついてしまった。
「大丈夫だよ、志乃。これは単なる人形だ」
「人形? 何でこんなものが……」
「さあね」
龍神のは意地悪っぽく笑うと、奇妙な言葉を唱えはじめた。お経とも言えないような言葉で、日本語かどうかもよくわからない響きを持っていた。
本堂の外では、また鳥の鳴き声がする。鬼という存在があるのなら、鬼が吠えているような声にも聞こえて、私はただ龍神様にしがみついていた。
奇妙な言葉を唱える龍神様の横顔は、整った顔立ち故にとても冷たく見えた。
今更ながら、この龍神様を信じてもいいのだろうか。
絵の様に美しく、見た目は綺麗だ。髪の毛も美しいし、良い匂いもする。太郎くんのことは知らないと言っていたが本当だろうか。今のところこの男は優しすぎるほどの態度で私に接しているが、信頼しても良いものか自信が揺らぐ。
しかし、私はもう他に行く場所が無い。真野さんとも別れてしまったし、旦那様も亡くなった。奥様や絵里麻に頼るわけにはいかない。頼ったとしても追い返されるのだろう。そもそもあの人たちがここに私を送ったのだ。助けてくれるはずが無い。
そんな事を考えていると、龍神様は口を閉じる。奇妙な言葉は終わると同時に、目の前の信じられない光景が現れた。
人形のようなものがあったと思ったのに、池が現れた。
これは幻覚?
私は恐怖で再び龍神様にしがみつくが、彼は無視して池を見つめている。池は沼のように深い色をしていて、闇のようにも見えてしまった。
ただ、鏡のように艶やかな水面は私達を反射していた。そこに映る龍神様の横顔はぞっとするほど冷たかったが、より美しく見えた。銀色髪の毛が光に透けるように綺麗で、思わず見惚れてしまう。
「志乃、ちょっとだけ我慢だな」
「え? 何?」
龍神様は私の質問には答えなかった。代わりに勢いよく池に飛び込む。彼に抱き抱えられていた私も必然的に池の底に落ちる。
声など出なかった。池は想像以上深くて足がつかない。
私は、呼吸ができない息苦しさに死ぬ思いだった。池の水は汚く、全身が濁っていく感覚に吐き気がしそうだ。ただ、龍神様にしがみついているしかない。
目に水が入り、ろくに見えなかったが、龍神様はこんな私を笑っているように見えた。
この人は信頼してもいいの?
やっぱり殺されるの?
しかし、意識は朦朧とし身体も重くなり、何も考えられなくなった。
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