乾貴代子 2

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乾貴代子 2

 恐れていたことが起きた。主人は工場へ左遷された。まったくの理不尽な辞令に主人はおとなしく従った。  養う家族のために自分のプライドを殺した主人を、今は褒めてあげたい。  仮に給与が下がっても、私が復職すればいいだけのことだ。なんなら、私が仕事をして、主人が家に入ったっていい。今の時代、妻が大黒柱になっても、何の不思議もない。  私は以前、看護師だった。主人とは病棟で知り合った。主人は交通事故で運ばれてきた。右脚を複雑骨折して、全治三週間だった。  私は主人の担当になった。二十年も前で、お互いに若かった。どちらも人見知りが激しく、顔を合わせても口を聞くことができなかった。  私は事務的なことしか言わなかったし、主人もうんうん頷くだけだった。でも、そのような関係が私は嫌いではなかった。  病棟の中には看護師のお尻を触ったり、無理やり、電話番号を聞き出そうとする破廉恥な人もいた。その点、主人は草食動物のようにおとなしく、看護師にとっては扱いやすい患者だった。  主人は三週間もしないうちに怪我が完治し、退院の日を迎えた。  私はよかったですねと、型通りの言葉を投げかけた。主人は名残惜しそうに私を一瞥した。その目が仔犬を連想させた。私はその時、初めて主人の本当の顔を見たような気がした。
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