奥様

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 直之様を恨むのは道理に合わぬ愚行でございましょう。それでも、私はどうにも抑えきれずに直之様に憤りをぶつけてしまったのでございます。  私は図体ばかりが大きいだけの意気地のない臆病者です。それは、疑いようもございませんし、私が一番理解しております。  私と奥様の秘密の関係は半年ほど続いておりました。奥様の気紛れに寝室に呼ばれ、服を剥かれて、私の中の男を辱しめられるのです。淫らな悪戯に翻弄され、身体中をまさぐられ、奥様の言われるままに腰を振るのは、ひどく惨めな思いがいたしました。  そこには、私の意思はなく、愛などあるはずもなく、ただただ刹那的な快楽があるだけなのです。  奥様が猫のように甘やかに喘げば、その度に姉さんたちの末路を思い出し、低俗で穢れた男に成り下がってしまった私自身に絶望いたしました。  いいえ、私は被害者ではありません。私は非力な生娘ではありませんし、屋敷の中で最も背丈も高く、腕力のある男なのです。奥様は底の知れぬ美貌の淫魔ではありますが、体つきは華奢な女でありましたから、幾らでも、力で捩じ伏せて、張り倒すこともできましょう。  無一文で屋敷から追い出されることに怯えるほどの子供でもございません。帝都で職を見つけることもできたでしょうし、帝国軍に志願して、お国のためにこの身を捧げるのも良いのかもしれません。  そうしなかったということは、私は、間違いなく姦通の共犯者でありました。旦那様や直之様をも裏切る下劣な男であったのです。  それでも、世界の終わりを目撃したあの日。直之様の震える手の感触がいつまでも私の手に残っておりました。「弘は、何処にも行かないよな」と震えた声が、いつまでも耳に残っていたのです。 「弘、僕は帝都にある高等学校に進学することにしたのだよ」  中学校からご自宅へ帰る馬車で、直之様は得意げに仰いました。直之様が中学四年生の秋のことでございます。神童と呼ばれる程に成績の良い直之様は、名のある名門校より推薦の申し出があったようで、浮き足だっておられました。 「帝都でございますか」 「ああ、学生寮のある学校でね」  上擦った私の声に気づかないのか、直之様は進学される高等学校の素晴らしさについて、私に語ってみせました。思わず手綱を握る手に力が入ります。 「直之様は、奥様を残してお屋敷を出て行かれるのですね」  奥様や女中や下男。そして私のことも捨ててしまわれるのだと思うと、沸々と怒りのようなものが込み上げてくるのです。 「人聞きの悪い。盆と正月には帰省するつもりだ」 「そうでしょうか。上京される方は、伊豆のことなど、すぐに忘れてしまいますから」 「意地悪だな」  私は意地悪でありました。  伊豆というのは、帝都の喧騒に疲れた都会人を癒す避暑地でございます。現実を忘れるための淡い夢の場所でありますから、慌ただしい帝都人になってしまえば、伊豆のことなど、忘れ去っても仕方のないことでございましょう。そう例えば、旦那様や松本先生のように。  直之様は黙っておられました。  手綱を握りしめながら、私は初めて私自身の未来に思いを馳せました。そして、不意に気づいてしまったのです。直之様の居ない朝倉邸に、しがみつく理由など何一つないということに。  私は、何処へでも行けるのです。
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