坊っちゃん

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 私が朝倉邸に奉仕にあがったのは齢七歳の春でした。私が生まれたのは、寂れた遊郭の片隅です。母は、生まれたばかりの赤子を抱くことも叶わず亡くなりました。  孤児の私は、女であれば禿(かむろ)となっていたのでしょうが、貧しい遊郭のなかで男として生まれましたから、早々に捨て置かれるとこでありました。けれど、母は存外に人望があったようで、母の妹分の遊女たちが、こぞって世話をしてくださったのです。もしかすると、彼女らが産むことの叶わぬ赤子の代わりだったのかもしれません。  私にとっては、見世物小屋が遊び場であり、仕事場であったのです。けれど、それも長くは続きませんでした。月日を重ねれば、私を守ってくださった姉さんたちも遊郭を去っていき、子供の使いしかできぬ私への風当たりはいよいよ冷たくなっていったのです。  遊女の末路は決まっております。裕福な旦那様に身請けされるのは稀なことで、格下の見世に住み替えられるか、身体を壊して床に伏せて亡くなるかが常でした。  そうして、私もいよいよ身体が大きくなりますと、いつまでも穀潰しの面倒は見ていられぬと、里子という名目で、朝倉邸に丁稚奉公として引き取られることになったのです。  朝倉邸は、伊豆の国の山奥にございます。仲買人の爺さんに手を引かれて、随分と山道を歩かされるものですから、もしかしたら、このまま山の中に捨て置かれてしまうのかしらん。と、小さな胸を不安で一杯にさせていたのをよく覚えております。しかし、その先には、立派な西洋風のお屋敷がありました。白い煉瓦造りの外壁に、三角の屋根は鴬色をしております。  お屋敷の客間に通された私は、そわそわと落ち着かない思いでした。部屋は見たこともない異国の調度品が飾られており、汚れた着物では、綺麗な長椅子に腰かけることも憚られます。私は、しわくちゃの爺さんの手をぎゅっと握りしめて、立ち尽くしておりました。  そこへ現れたのは、和装の貴婦人と、五歳になったばかりの坊っちゃんでした。いいえ、一目では、凛としたお嬢さんのように見えました。生粋の美形の幼児は、性別があやふやで、けれど、男物の着物を着ておりましたので、男児なのだと思いました。 「あら、眉目の良い子ね」  奥様は、ぽつりと呟きました。父の顔は知りませんが、母は高級な遊郭にいたこともあるそうで、大層な別嬪だったのだと、姉さんたちは、おっしゃっていました。だから、私にも半分はその血が流れているのでしょう。  仲買人の爺さんは、卑下た笑みを浮かべて、私の経歴を奥様に説明いたしました。全くもって、いい加減なもので、私はどこかの貧しい百姓の末子ということになっておりました。遊女の子というのは、どうにも世間体が悪いのでしょう。  奥様は、私の顔をじいと見つめ「読み書きは」と問いかけました。私は緊張のあまり、口をパクパクさせるばかりでしたが、絞り出すように「すこし」と答えました。姉さんたちは、お客がないときには、火鉢の灰で、よくカタカナを教えてくだすったのです。 「この子は直之というの。兄弟がいないものだから、淋しい思いをさせていたところ。年の頃も近いのだから、良い遊び相手になって頂戴ね」  奥様に優しく微笑まれて、私は安堵いたしました。少なくとも門前払いではありませんでしたから。 「坊っちゃん、よろしくお願いします」 「よろしく」  私が深々と頭を下げますと、坊っちゃんは、すぅと手を伸ばしてきました。私は手汗を着物の裾で捻ると、坊っちゃんの手に手を重ねて、握手をしました。坊っちゃんは、にこやかな笑顔で、私の手を握り返してくだすったです。けれど、奥様に見えぬようにギリギリと私の手の甲に爪を立てるものですから、私は吃驚してしまいました。  朝倉直之様は、美男で、教養もあり、ハイカラな紳士でいらっしゃいます。けれど、その反面、ひどく陰湿で意地の悪い性質を隠し持っておられたのです。
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