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気がつけば、私が朝倉邸に奉公にあがってから十年程の歳月が経っておりました。それでも、私の持っているものといえば、一つのボストンバックにすべて収まってしまう程度のものでした。僅かな衣類と財布。錆び付いたブリキの電車。そして、枕元にある一冊の本が私の全てだったのです。皺だらけの雑誌を開いて、映画の半券を挟むと、鞄の底に忍ばせました。
私は心に決めていたのです。今夜、屋敷の者が寝静まった頃合いに、このボストンバックを掴んで朝倉邸を抜け出すのです。小高い丘にある屋敷から徒歩で下山するには数刻はかかります。朝方には女中たちが私の不在に気がつくでしょうが、騒ぎになって屋敷中を探し回っている頃には、私は始発の汽車に乗っているのです。何も難しいことではありません。
私はボストンバックをベッドの下に押し込むと、襟を正して、いつものようにご奉仕の準備を始めました。クロに餌をやり、馬車を朝倉邸の玄関先にまで回し、大きな革のトランクケースを積み込みました。
「それでは、行って参ります」
玄関先で直之様は私に背を向けて、深々とご挨拶をされました。トレンチコートに洒落たハットを被った直之様は、とても大人びて見えました。
「身体に気を付けるんですよ。必ずお手紙を頂戴ね」
屋敷中の女中や下男たちが見送る中、奥様は瞳を潤ませながらハンカチーフで目元を拭います。直之様は帽子を深く被り直して会釈すると、馬車の客車に乗り込みました。
「出発してもよろしいですか」
直之様が小さく頷くのを見届けると、クロに鞭を振り、馬車を走らせます。直之様は始終無言で、遠くを見つめておりました。
こうして直之様を乗せて馬車を走らせるのも、これが最後だと思うと、感慨深いものが込み上げるのです。瞳に焼き付けておこうと盗み見た直之様の横顔は、今日に限って一段と美しく、黙っておられると人形のようでございました。
「馬車はこちらへ」
車掌の誘導で、馬車を駅の端に停めました。伊豆で最も大きな駅は、旅立つ者、見送る者で人だかりができております。馬車の荷台に積んだトランクケースをおろすと、直之様は私の手から奪い取りました。
「自分で持てるから」
華奢な少年だと思っていた直之様は、凛々しい顔で、しっかりと重い鞄をお持ちになられました。汽車に乗り込む後ろ姿は、記憶の中の坊っちゃんより随分と背丈が高くなっているのです。
「弘」
直之様は、私の名を呼びました。
「僕は必ず伊豆に戻るから」
振り返った直之様は、正面から真っ直ぐに私の瞳を見据えるものですから、思わず目を伏せてしまいます。
「お前は何処にも行かないだろう?」
「……ええ」
直之様には見透かされていたのかもしれません。私はなんとか下手な笑顔で取り繕ってみせました。汽笛が鳴り、後方の車両から車掌が一つずつ扉を閉めていきます。
「お気をつけて」
私は直之様に頭をさげました。小さな舌打ちが聞こえた気がして、私は恐る恐る顔をあげました。
直之様は罪なお方でございます。車窓の向こうから私に向ける眼差しは、見たこともないような儚げな色をしていたのです。いいえ、そのように見えただけなのかもしれません。汽笛が鳴り、白い蒸気が吹き上がると、直之様を乗せた汽車は、みるみる遠ざかっていきました。
朝倉邸から逃げ出すことは、いつでもできること。ならば、もう少し見送ってもいいのではないか。ここまで辛抱したのだから、あと少し辛抱するぐらい構わないだろう。
朝倉邸への帰り道。馬車の手綱を握りながら、私の頭の中にはそのような言い訳ばかりが浮かんでいたのでございました。
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