奥様

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 直之様の姿が消えた朝倉邸は、次第に空気が澱んでいくようありました。時を同じくして、女中頭のウメさんがお身体を悪くされ、お暇となってしまったこともあったのかもしれません。ウメさんは、使用人たちに大変に厳しい人でしたが、その厳しさは奥様にも向けられていたように思います。貴婦人たる振る舞いの手ほどきをしていたウメさんの目がなくなれば、奥様のタガも外れてしまったのかもしれません。  奥様の格好は清楚な貴婦人から、派手な色味の洋服へと代わっていきました。ネックレスやイヤリングなどの装飾品を身につけて、化粧も濃いものになっていったのです。そのように着飾った奥様は、夜毎に社交場に通われるようになっていきました。私の仕事は、そんな奥様を社交場まで送り届け、裏手の目立たぬ物陰で馬車を止めてお待ちすることでありました。  夜が過ぎ行き、東の空から光が差し始め、町が朝靄に白み始めた頃でした。奥様は、裏口からふらりふらりとよろめきながら、出て来られます。けほけほと咳き込む奥様に、私はすぐさまに駆け寄って、肩を貸そうと腕を伸ばしたのですが、その手はパシリと払い除けられてしまいます。 「そんな目で見ないで頂戴」  奥様は潤んだ瞳で私を睨み付けました。乱れた髪に、赤い痣のある唇からは、アルコールと煙草の臭いがいたします。朱色のワンピースも皺が寄っておりました。  奥様にとって、私が唯一の情夫というわけではございませんでした。いいえ、私という男は、若いだけが取り柄のつまらない男であったのでしょう。次第に、私が奥様の部屋へ呼ばれることもなくなり、その代わりとでもいうのでしょうか、こうして社交場で、一夜の逢い引きの相手を見つけては、愛慾に浸っていらっしゃるのです。 「お身体に触ります」  私は自らのジャケットを脱いで奥様の肩にかけました。乱れた着衣から覗く肌は小刻みに震えていたのです。  寝静まった町から離れて、朝倉邸へ向かう山道に差し掛かりますと、小鳥のさえずりと馬の蹄の音だけが優しく響きます。 「私は愛されたいだけなのよ」  横目で奥様を見やりました。そこには疲れ果てたように客車で横になり、瞼を閉じている女がおりました。やはり冷えるのか苦しそうにジャケットを握り締めて縮こまっておられます。  奥様は特別な貴婦人でも、美貌の妖女でもありませんでした。憐れで、脆く、健気な「女」という生き物でございました。  私は手綱を握りなおすと、明け行く空を見上げたのでございました。下男にすぎない私には、奥様を咎めることなど、できようもございませんでしたから。
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