奥様

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 奥様が少しばかり外出を控えるようになったのは、朝倉邸に若い書生が出入りするようになってからでございます。  いつ旦那様がお帰りになられても良いようにと、常に綺麗に整えられていた朝倉邸でございましたが、朝方に客間の扉を開いてみれば、机に飾られた花瓶は倒れて床を濡らし、脱ぎ捨てられた衣類が無造作に落ちておりました。盛りのついた猫のように、奥様と書生はところ構わずに情事に耽るような有り様でしたから、見かねた通いの女中たちも、ひとり、またひとりと、自らお暇を出して去っていきました。  ですから、このような散らかった部屋の片付けも私の仕事になっていたのです。 「君は愛嬌というものを覚えたまえ」  汚れた衣類を拾い集めておりますと、唐突に声がかかります。顔をあげれば、例の書生がしたり顔でこちらを見つめておりました。思えば、奥様の情夫に声をかけられたのは初めてのことでした。 「ご不快でしょうか」 「いいや。ただ折角の色男なのに勿体ないと思ったまでだ。夫人に甘えれば、もっと楽ができるだろうに」  鼻で嗤う男の顔は、いやらしいものでした。よれた袴姿にもっさりと髪の長い男。小遣い欲しさに白々しいおべっかで奥様に媚びているのは、傍目から見てもわかります。私には、なぜこのような与太者に、奥様が心酔しているのか皆目見当がつかないのです。 「あら、どうかしたのかしら」  書生の横から顔を覗かせたのは、朝倉家の奥様でございました。奥様の瞳は輝きながらも、どこか虚ろで、頬もこけ、どことなくやつれておられました。奥様は、私のことなど気にも留めておらず、サテンのバスローブから覗く赤いネグリジェも隠そうともなさらないので、私はそのあられもないお姿から目を逸らしました。  書生は、奥様にすり寄って腰を抱き寄せますと、首元に唇を押し当てました。 「おはよう。よく眠れたかい?」 「ええ、…………もう、朝からいやだわぁ」  奥様は肩を竦めて嫌がる素振りを見せるものの、満更でもなさそうに微笑んでおりました。  私にはわかりかねますが、これが恋人同士というものなのでしょうか。されど、このような日常は長くは続かなかったのです。  遠くで扉が開く音が聞こえた気がして、私はお二人に頭をさげて、玄関に向かいました。 「おい、誰かいるか」  屋敷の玄関ホールに立っていたのは、年若い青年でありました。半袖の白いシャツに細身のスラックス。艶やかな黒髪に、切れ長の瞳。高等学校の二年生とは思えない大人びた立ち姿をされております。けれど、その美しい顔は、ひどく不機嫌そうに眉を曇らせておりました。 「おかえりなさいませ。直之様。ご連絡いただければ、お迎えにあがりましたのに」 「母はいるか」  頭を下げる私に、直之様は低い声でおっしゃいました。私はどうしたものかと頭をさげたまま固まってしまったのです。それでも、屋敷の奥で物音が聴こえれば、直之様は迷うことなく真っ直ぐに客間に向かわれます。 「直之様、今はいけません」  私は直之様の行く手を遮るように腕を広げてみせました。それでも、直之様は私を下から睨み付け、私を押し退けて、客間の扉を開いてしまったのです。そこにはソファでじゃれついている淫らな猫たちがいたのです。 「穢らわしい」 「直之……」  奥様は情夫から身体を離すと、慌てて開いたバスローブを閉じて肌を隠しました。 「君の新しい情夫かい」  のんびりとした与太者の声に、直之様の眉間の皺はいっそうも深くなってしまいました。クックッと笑う男に、私は我慢できずに肩を掴んでしまいます。 「どうか、お引き取りを」  男は肩を竦めると、面倒くさそうに頭をかき、直之様の横を通りすぎました。挑発的なにやけた顔に、直之様は唇を噛み締めます。  朝倉邸は、小高い山奥にございます。ですから、奥様の客人のお帰りは、馬車でお送りしなければなりません。  私は、書生の男の背中についていこうとしたのですが、唐突に、腕を掴まれてしまいました。 「弘、そんな奴を送らなくていい」  チッと舌打ちをして、男は立ち去っていきました。 「お前がついていて、どうして」 「申し訳ありません」  直之様は傷ついておりました。怒りに燃える瞳の中に、ひどい哀しみの色があったのです。  帝都の高等学校に通われる朝倉直之様が、突然に帰郷されたのには訳がございました。  奥様の如何わしい素行は、遠く異国の地にいる旦那様の耳にまで届いてしまっていたのです。直之様は、旦那様からのお手紙を奥様に突きつけ、口汚い罵りを浴びせます。  その場で泣き崩れた奥様は、支離滅裂な言い訳を口にするばかりで、余計に直之様の怒りを煽ります。奥様に手をあげなかったのが、せめてもの救いでしょうか。  私は成す術もなく、ただ目の前が真っ暗になっていくようでありました。  伊豆の地で名の知れた朝倉邸は、こうして、栄華の終わりを迎えたのでございます。
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