306人が本棚に入れています
本棚に追加
若旦那様
帝都から伊豆への道のりは遠く難儀なものでございました。木製の車椅子はずしりと重く、馬車や汽車の乗り降りも、私一人ではどうにも難しく、見かねた駅員が手を貸してくだすったほどでした。
車椅子という代物も大変に珍しく、裕福な老人が座っているのを見かけるぐらいのものでしたから、若々しく歌舞伎俳優のような美男子には不釣り合いでございましょう。ですから、否が応にも、行き交う人々の目が若旦那様に集まってしまうのも無理はございません。直之様は深く帽子を被ると、始終じいっと俯いて周囲の視線に堪えておられました。
朝倉邸に着いたのは夕刻でございました。
屋敷の前に馬車が止まりますと、私は客車に添うように車椅子をご用意しました。そうして、直之様の身体を支えて、ゆっくりと馬車を降りたのです。左膝の皿は良くはなったものの痛みを伴うようで、直之様は小さく呻き声をあげました。
「痛みますか」
「少し」
私に身を預けながらも直之様は、こちらを見ようともせずに朝倉邸を見上げて、眉を曇らせました。私も釣られるようにしてお屋敷を見上げれば、その有り様に、背筋にゾワゾワと悪寒が走ったのです。
私は朝倉家に引き取られてからというもの、一度たりともお屋敷から離れたことなどございませんでした。だからでしょうか。数ヶ月ぶりに目にした朝倉邸は、初めて訪れた西洋館のように見えたのです。
鶯色の屋根は黒ずみ、外壁の煉瓦には亀裂が幾つも走っておりました。そうして、長い年月をかけて伸びた蔦が屋敷を飲み込むように這っているのです。
まるで怪異でも巣食っているのではないかと思わせるような薄気味悪さでありました。
「どうかしたか」
「いいえ」
私は我に返りますと、肩を貸している直之様を車椅子に腰かけるように促して差し上げました。そうして、重い扉を開いて、車椅子を押して洋館に足を踏み入れますと、玄関ホールは、しんと静まっているのです。
「若旦那様、おかえりなさいませ」
どうにも沈黙に堪えきれない私は直之様にお声をかけました。直之様は、俯いたまま重い溜め息を溢しました。
「直之……帰ったのね」
二階の扉から顔を出したのは、青白い顔をした貴婦人でございます。奥様は、寝着の着物に、こけた頬で微笑むと、階段をのそのそと降りてこられました。そうして、直之様の手を取り、ぎゅうと握り締めたのです。その指は小枝のように痩せ細り、赤い薔薇のような痣がいくつも点在しておりました。
「ああ、可哀想な直之……」
「僕に触れないでくれ」
「…………そうね。ごめんなさい」
直之様は、奥様の手を払い退けました。奥様の瞳が震えるものですから胸が痛みます。そうして、けほけほと咳き込むと、その場でうずくまってしまわれました。
奥様は不治の病を患っておられるのです。それは、幼少期の頃に見た姉さんたちの病とよく似ておりました。
最初のコメントを投稿しよう!