若旦那様

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 客室では、直之様と奥様が向い合わせで座っておられます。久方ぶりの母子の再会でしたが、その空気はじっとりと重苦しいものでございました。  私がお二人に紅茶を淹れて差し上げますと、直之様は、簡潔に旦那様からのお手紙の話を切り出されました。 「ああ、なんてことなの」 「当面は、金目のものを質に出して、急場をしのぐしかないでしょう」 「いやよ。そんなのいやよ」 「それでは皆の者に暇を出しましょう」  事実のみを淡々と報告する直之様とは対照的に、奥様は顔を覆って、しくしくと涙を流し始めます。もはや、この屋敷の使用人は数名程度でありましたが、その者たちを養うこともままならぬ程に、朝倉家の財政は困窮していたのです。 「弘、書斎へ連れていってくれ」  いつまでも泣いている奥様に、直之様は溜め息を吐いて、私に目配せいたしました。けれど、私はすぐには反応ができません。悲嘆に暮れる奥様がどうにも不憫で、放ってはおけないのです。 「お前は朝倉に残るわよね」  奥様は私の服の裾を掴むと、上目遣いで見つめてきたのです。切れ長の瞳が赤く充血しており、私はドキリといたしました。久しく、私の存在など無視されていらっしゃった奥様の瞳に、私の顔が映り込んでいたのです。 「弘」  私が口を開く前に、直之様が苛立ったように私の名を呼びました。奥様は目をしばたたかせると、握っていた裾を離して俯きました。  奥様と私は、かつての共犯者でありました。だからこそ、直之様の前では、奥様と距離を取らなければならぬはずでした。直之様にだけは、私たちの秘密を悟られてはなりませんから。 「申し訳ありません。書斎でございますね」  私は直之様の背後に回り込みますと、車椅子の手押しを握ります。奥様はというと、ただ黙って、薄く微笑んでいらっしゃいます。それは貴婦人らしいたおやかな笑みでございました。  車椅子を押しておりますと、今までは気にも留めていなかった不便を感じます。朝倉邸の床は僅かな段差がいつくもあり、その度に車輪がつっかえて、直之様の不評を買ってしまうのです。それでも、病室に軟禁されておられた頃よりは、いくらかは自由でございましょう。  かつて旦那様が愛用されていた書斎は、一階にある一番端の部屋にございました。壁一面の本棚には、貴重な書物が並んでおります。少し埃っぽく、昼でも薄暗いのは、遮光性の厚いカーテンを閉めきっているからでございます。幼き頃に、良かれと思い、窓を開け放った際に、ウメさんにきつく叱られてしまったことが思い起こされました。  直之様は、書斎に置かれているランタンに火を灯すと、本棚を照らして、綺麗に並んだ御本の背表紙を眺めております。そうして、その中から一冊を手に取られて、大事そうに表紙を撫でられました。 「それでは、私は直之様の部屋をご用意しますね」  直之様が活字の世界に没頭される前に、一声をかけさせていただきました。  本来は、直之様のお部屋は二階にございます。けれど、車椅子では階段をのぼることなどできようもございません。それならば、かつて旦那様が使われていたお部屋を直之様の寝室にされるのがよろしいでしょう。旦那様が伊豆にお越しになるようなことは、もう望ませんでしたから。 「母はああはいっていたが、お前も、ここから出ていっていいのだからな」  直之様は、御本に視線に向けたまま、ぽつりと呟かれました。 「私は朝倉家の里子でございますから」 「そうだったな。お兄さん……だったな」  私はなんと応えて良いやら、思いつきませんでした。誤魔化すように頭を深々と下げると、書斎を後にしたのでございました。
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