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伊豆のお屋敷に戻られてからというもの、直之様は書斎に閉じ籠るようになりました。昼夜問わず、まるで何かに取り憑かれたかのように、御本に没頭されております。そうして、時折、何やら書き物をされていらっしゃるようで、月に何度か、帝都の出版社に封書を送るように言付けされました。それが、僅かばかりの給金を得る手段であったようです。
季節は春先から梅雨に移り行き、鬱々とした長雨が終われば、日を追うごとに暑さは増していくようでございました。
「若旦那様、少しお出かけされませんか」
直之様は不可解そうに眉を曇らせました。
「この時期は鮎が川を昇ってきますから、裏手にある川辺で釣りをしてこようかと。今日は通いの女中もおりますし、半日ほどお屋敷を離れても構わないでしょう」
直之様の眉間の皺が深くなり、出過ぎた申し出をしてしまったのだと気がつきました。けれど、朝食もほとんど口をつけずに箸を置いた直之様は、ひどく顔色が悪く見えたのです。これから夏を迎えようというのに、その肌は雪のように青白く、目の下には隈がございます。今年は米も不作で、食卓も野菜ばかりでございましたから、何か栄養が付くものを口にしていただければ、と思ったのです。
「釣り場なんかに、僕がいたら邪魔だろう」
「そんなことはございません。それに、御本を読むにも、書斎は暑いでしょう。川辺は、とても涼しいのですよ」
避暑地といえど、夏は暑いものです。
今日は、どうやら風も大人しく、食堂の窓を開け放っても涼は得られません。ましてや、窓を締め切った書斎は、熱が籠り、昼過ぎには蒸し風呂のようになるのです。直之様は少し考えた後に「わかった」と、頷きました。
「そんな格好でいくのか」
「洋服では汚れてしまいますから」
直之様は嘲笑めいておっしゃいました。それでも仕立てていただいた洋服を濡らすわけにはいきませんでしたから、些か不格好ではございましたが、丈の短くなったボロの着物に、首には手拭いを巻いておりました。
「暑いな」
玄関を開くと、容赦のない日差しが降り注ぎます。日の光に慣れておられない直之様は眩しそうに手を翳して、空を仰ぎました。そんな若旦那様の頭の上に、私は麦わら帽子をそっと乗せて差し上げました。
目的の釣り場は、さほどの距離ではありません。朝倉邸から少し山を下り、脇に逸れた細い獣道を抜けると、すぐに川辺なのですから。
それでも車椅子を押して進むのは容易なことではございません。舗装されていない山道はガタガタと車輪を揺らすものですから、直之様は、手持ちの御本を落とさないようにと、大事そうに胸に抱えておられました。
木々に覆われた薄暗い獣道を抜けて、視界が開ければ、ひんやりと冷たい風が吹き抜け、直之様の帽子を揺らしました。日の光を反射してきらめく水面に、川のせせらぎは涼やかであります。
「水の匂いがする」
つばの大きな帽子では、直之様のお顔はわかりません。それでも、声色はいつになく柔らかで、私は安堵いたしました。この山は、朝倉家の私有地でございましたから、他の者はまず知りません。この場所は、謂わば私だけの秘密の釣り場だったのです。
「この辺りで休みましょう」
ごつごつとした岩場は、車椅子に不向きでしたから、丁度良い木陰を見つけますと、私は腰につけていた手拭いを土の上に敷きました。
自ら立ち上がることのできない直之様は、私の方に両手を伸ばします。その身体を抱えるようにして、支えて差し上げました。私の胸に身体を預ける青年は、やはり随分と痩せてしまわれたように思います。腰回りも細く、手足も枝のようで少し心もとないのです。
「弘」
「申し訳ありません」
咎めるような口ぶりに我に返ります。抱きとめていた身体をゆっくりと地面におろして差し上げますと、直之様は足を伸ばして大木に背を預けて、息を吐かれました。
風が吹き抜け、ざわざわと木々を揺らします。
直之様は、珍しそうに辺りを見渡しましたので、私も釣られるように茂みを眺めました。そうしていると、青い葉の下に、赤く光沢のある粒がたわわに実っていることに気がつきます。
「ニワウメですね」
直之様は、まばたきをしました。
私は立ち上がって、赤い実を一粒もぎ取ると、口に放り込みました。思ったより皮は柔らかく、酸味も少なく、ほどよい甘さがありました。
「丁度、食べ頃ですね」
「食べられるのか」
直之様は、もう一度、まばたきをしました。
なるほど、直之様のような温室育ちの坊ちゃんは、ご存知ないのかもしれません。腹が減れば、目についた木の実を口に入れていた私とは育ちが違うのですから。
口に残った種を吐き出して、より赤い実をもぐと、直之様に差し出しました。直之様は、赤い粒をつまみ上げると、しばらく眺めておりましたが、おそるおそる口に入れました。
「甘いな」
ニワウメを大変に気に入られた様子で、直之様はもごもごと楽しそうに口を動かしました。そんな無邪気なご様子に、つい顔が綻んでしまいます。赤い実をいくつか摘み取り、直之様の膝の上に乗せて差し上げました。
「お前は食べないのか」
「私は釣りの準備がありますから」
頭に手拭いを巻いて、着物の裾をたくしあげて腰ひもで留めますと、草履を脱いで、釣り竿を手に川に入ります。水は冷たく透きとおり、清流を昇るように魚の影がいくつも泳いでおりました。苔に足をとられそうになりながらも、慎重に川辺を進み、ひと際、深い川の底に釣り糸を垂らして、仕掛けを揺らします。
遠くで小鳥のさえずりと、風音がざわざわと響いておりました。こっそりと振り返ると、直之様は御本を開いておられます。風が吹き抜ける度に、麦わら帽子のつばが、ゆらゆらと揺れておりました。
暑い日差しも、冷たい水の感覚も遠退いていくようです。
もしかすると、これは夢の中なのでは、と不意に脳裏を過りました。直之様が帝国大学にご入学される日に、私は覚悟したのです。凛とした立ち姿で、朝倉家のお屋敷に背を向ける直之様は、きっと、伊豆に戻られることはないのだろうと。
「鮎は釣れそうか」
私の視線に気が付いたのか直之様は顔をあげ、やんわりと微笑まれたのでございました。
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